入口はカンタン 250321
2025/3/21
やり始めは何でも簡単だ。周りの人の協力や的確なアドバイスをいただいて、思ったよりもうまくできる。しばらくやっているうちは、ひょっとして自分には適性があるんじゃないかと自惚れたりもする。自惚れることは結構大事で、それによって継続する意欲が湧く。周りのおだてもあって、ますます入り込むという流れができる。
そうやって私はいけばなを続けた。まともな人は3ヶ月もすれば少し躓くことも出てきたり上手くいかない苛立ちを覚えるものだが、私は2年以上スランプがなかったように思う。反省しない猫のようだ。
それでも3年くらい経つと、他人の作品の意図が見えるようになり、自分の作品が単に手遊びに過ぎないと感じられるまでに成長した。どのように花をいけても下作に見えてしまった。それで、いけばなというよりオブジェと呼んだ方がいい作品に逃げたりもした。手を抜く気持ちは全くなかったのに、私が手を抜いたかのような批評を聞くこともあった。
こうして修行を重ねるうちにまた新しいステージの修行道場が現れ、紆余曲折しながらその人生ゲームのコマを1つ進めるのだ。
体で覚える 250320
2025/3/20
人は過去に学んだり体験したことの積み重ねによって物事を素早く判断する力を身に着けるが、その素早さでもってしても間に合わない事態があるから、「頭で覚えるな、体で覚えろ」とよく言われてきた。
世の中には素早さの何倍も素早く、反射的な対応が求められることがある。少年時にやっていたサッカーの試合でも、常に局面がコロコロ変わるし、チームメイトとの意思疎通も時に俊敏な敵の対応によって崩された。大人になって車を運転しているときなどもそうだ。高速で走っているとき障害物を避けようとする動作は、勘といってもいいくらい直感的な筋肉の動きで行われる。
このように命に係わる判断力は、やはり頭から出てくるというよりは体から出てくる。頭でデータや経験則を検索する余裕はない。
そういうことは、瞬発力が要求される場面だけでなく、いけばなでは花材との関係において重要だ。個々に違いはあっても、梅の枝は一般的に曲げやすい。しかし、曲げ方を失敗すると折れる。折れかけていても折れてしまわないというギリギリを攻められるのは、やはり体験の量で体が覚えたからだ。
芸術はイノベーションなしにはいられない 250319
2025/3/19
来年度から、松山商業高校華道部は茶道部・琴部と「(伝統)日本文化部」(名称は知らないが、内容的にはそういうことだろう)に組み込まれる。その中で華道部門ということになるようだ。
芸術はイノベーションなしには真価が問われることになり、「伝統芸術」という表現をしてしまうと意味の矛盾した言葉の組み合わせになる。だから華道と呼ばれるものは、芸術ではなく文化の範疇にくくられて「伝統文化」に仲間入りする。だから「伝統日本文化部」であったとしても、「伝統日本芸術部」ではない。
華道を「いけばな」と呼ぶときは、そこに日本の伝統文化があるかといえば、あるにはあるけれどそこまでのこだわりはなくなる。いけばなでも伝統的な「型」を稽古するが、それは新しい型をつくり続ける脱自・脱パターンの力を鍛えるための型である。
鋳型というのは、定型化・標準化して同一の商品を大量生産するためのもので、私たちが大切にしている型は、目安にはしていても、そこにどうしても個人個人の個性のズレを含んでいる。だから、同じ型でいけても、どれ1つ同じいけばながない。
二刀流 250318
2025/3/18
それを邪道と思っていた守旧派も脱帽し、大谷翔平の登場で二刀流は“特別なスタンダード”として認められるようになった。常識というものが否定されたのではなく、常識を超える者を普通に称賛すべきだという常識が生まれたと思う。
たとえば2人以上の師匠に師事することは、常識を逸脱していると見なされる。たとえば2つ以上の流派に所属することは、異常なことだとそしりを受ける。しかし、自分が信じていることを信じ通すことは立派でも、それを他人に押し付けるのは趣味に合わないから、私は自分の好みを人に強制したくない。
日本の伝統文化と人は言う。茶道しかり、華道しかり。しかし、これらの源流は、おそらく中国大陸や朝鮮半島からやってきたのではないか? 仏典などと共に輸入されたのではないか? 日本の衣食住は、現代に至るまでずっと諸外国からの影響を強く受けてきて、漢語や英語の取り込みを通しても日本文化はどんどん変質してきたと思う。
変わらないのは日本人気質だけかもしれない。和魂洋才ではないけれど、そういう二刀流が、いけばななどの日本文化には隠されている。
花器か花材か 250317
2025/3/17
3月21日は愛媛県華道会・華展のいけこみ日。私を含め我が社中から3人が出品。いつものことながら、その時期はどんな枝ものや草もの(花もの)の花材が旬なのかを回想し、またどんな花器を使おうかと考えるが、特に今年は天候不順の影響で花材の出回り時期がずれていて予想が困難だ。
目に入らない花材から想像するよりも、目の前にある花器から想像する方がたやすいから、どうしてもそういう順番で考えてしまうことになる。それで自然な成り行きで花器の決めこみが先行した。
明日か明後日、花屋に出向いて花材の相談をしよう。店の仕入状況を見て決める算段である。しかし、以前のいけばな展のときもそうだったように、需要が見込めない花材を花屋も仕入れていない。いきおい、ポピュラーな花ばかりが店頭に並んでいて、なかなか食指が動かない。購買者が増えないと仕入れが減るのも、仕方がないことだ。
こんなにも植生が豊かな日本だというのに、こんなにも地理的環境が幅広い愛媛県だというのに、溢れんばかりの花材から発想できない時代が来てしまうとは考えられなかったことである。