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いけばな随想
diary

暗い花 240820

2024/8/20

我々の暮らしの様子を眺めると、何か価値あるものをつくり出すことが称賛され、その価値の高さを証明するエビデンス! が極端に求められるようになっている。食品も、漠然とした美味しさよりも、明確な機能性の優先度が高い。芸術についても、著名なプロか無名のアマチュアかに二分されたり、情報発信量の多さによって評価が得やすい。個人の家にひっそりといけるいけばなと、衆目を集めるデパートのエントランスを彩るいけばなとの間にも、偏った見方や評価が下される。

いけばなに侘び寂びの精神があったというのは、昔日の話になってしまったのだろうか。多様性を良しとするポーズとは裏腹で、いけばな展においても、侘び寂びに向かう表現をすることに私は怖れを感じる。

いけばなは、それにふさわしい場にいけるか、場に合わせていけるか、どちらにせよ場を無視できなくて、展覧会の場もその捉え方が鍵となる。一般的な意味での装飾性の低いいけばな、不健康で暗いいけばなは、あえて展覧会に出すことが不適切なのかどうか、自信がないままに出すか、それを避けるか、私は逃げ腰になる。

ノイズ・ミュージック 240819

2024/8/19

1980年代後半、ラフォーレ原宿・松山に提案して、「ラフォーレ・アートパフォーマンス」というアート・イベントを行った。落葉をかき集めて作られた2人掛ソファは、展示翌日に大量の生きた芋虫を吐き出すなど、幅広く意表を突くような作品もあって面白かったし、アートって何? というのを再認識する機会を得た点で、自分にとってありがたかった。しかし、ファッション産業の旗手を自認していたラフォーレの意向にそぐわなかったためか、3年後に大広という広告代理店に仕事を持っていかれた。

当時、学生の時から付き合いのあった友人がノイズ・ミュージックにはまっていて、楽器演奏以外の生活音を拾い集めてハイブリッド編集し、デモテープを海外のラジオ局などに送っていた。少し飽きたのか、数年後にはその話題は彼から消えた。

人は他人と異なる表現を目論むとき、とんでもない材料を使いたいけれど、結局は現実的な落とし処を見つけて妥協する。

私のいけばなも、構想段階ではものすごい作品が空想されるが、その思いが一旦舞い上がった後、面白くない沈降曲線を描いて軟着陸する。

わからないから続けられる 240818

2024/8/18

いけばなをやっている。どこまで知っていて、どれだけわかっているかはわからない。わかろうとしてはいるけれど、わかっていないことが多いことはわかっている。

いろいろな画家の絵を見ても、「わかった!」と膝を打つようなことはない。はじめからわかろうと思っていないから、わかることが大事ではない。この場合は何かを感じたいと思っているので、何も感じられないと損をした気分になる。

猫を飼っている。いろいろわかってやりたいとは思っているが、つぶさにわかるはずがないという諦めが元にあるので、あまりわからなくても気にならない。しかし、トイレ以外で頻繁に“大きなほう”をしてくれるので、そこは逆にわかってくれよと歎願したいところだ。人は猫ではないから、互いにわかるはずだという前提に立ってしまう。ところがどっこい、わかり合えるという奇蹟はめったにない。やはりそうなのだ、人間同士ですらわからないのに、他のことがよくわかるなんてことはないのだ。

どの道の人でも生涯学び続ける。偉そうに言ったところで五十歩百歩だということがわかれば、しめたものだ。

夢のいけばな 240817

2024/8/17

1昨年のいけばな展は、屋外会場だった。大きいいけばなを制作しても園内の木の1本にも敵わないと直感して、私は背景の立木を取り込んだ作品をつくった。借景というよりも、その1本の大木と一体化させた作品だ。持ち込んだ材料でつくった部分は高さ2m幅3m奥行き4mくらいで、完成した一体化作品は高さ6m幅8m奥行き8mにまで拡がった。

昨年は個人的な遊びで、2mの竹を108本繋いで筏を海面に流すインスタレーションに挑戦した。筏部分も全長2mで竹と竹の繋ぎ部分が10cmなので、総延長228.8mの作品になるはずだった。途中まで海に繰り出した時、波の力で作品はあえなく引きちぎられ、漂流物となった(海の藻屑は、満潮を利用して後でちゃんと回収した)。

できれば次は、瀬戸内海と同じ大きさの作品をつくりたい。しかし、残念なことに、ドローンを飛ばすことができたとしても、その全体像を眺めることはできない。そうすると、人工衛星画像を見るか、ミニチュア模型をつくってそれを眺めて想像するしかない。どちらも潮風を体感できない点で偽物でしかないが。

精神的免疫力 240816

2024/8/16

新型コロナのさなか、免疫力という言葉がよく使われた。これは肉体的問題だが、精神的にも免疫力が低下することがある。

精神的に元気なときは、外界からの情報の受容量が高まり、取捨選択能力も高まって、免疫力が高いなーと感じられる。逆に鬱病的に元気がないときは、情報を遮断したくなり、処理能力が低下してアップアップで息苦しくなる。そうして気分が乱れて落ち込み、精神の健康を欠くことになる。健康なときはそうでもないのに、精神的に不健康になるにつれて外敵も増える。外敵を排除したいのにその力が足りなくて、熱を出して唸るのであった。

どこまでが自己であり、どこからが非自己であるか、肉体的には敵味方が明確なのだろうと想像するが、精神的な自己は、その時どきの調子によって変化するようだ。多重人格者のように、その時どきの自己は確立しているかのように振る舞いながら、他人から見ると安定を欠いているわけだ。

非自己を完全にやっつけて排除するか、非自己を敢えて取り込んで新しい自己を形成するか、いけばなにおいても生活スタイルにおいても考えどころである。

講師の事