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いけばな随想
diary

多作、量産 250129

2025/1/29

 この随想は、2023年の9月10日に始めた日記。見たり読んだりしたものをきっかけに、いけばなとリンクさせて書いている。考えを広げて、まとめ直したいという動機だ。
 続けることを目標にしてきて、筆が進まないこともしばしばある。基準にしている文字数460字のために半日を費やしたこともある。筆に勢いが乗り過ぎてとても収まらないときは、切り口を変えて2回分に分ける。毎日書いていると、自分で自分の文章に飽き飽きすることもある。また、書きながら「同じことを以前も書いたぞ?」と、堂々巡りをしていることもある。そんなときは、しょうがないので思い詰めずに、流す。時に、別人になったつもりで書いてみる。
 いけばなも同じだ。自分のパターン(作風)から抜け出せないと感じるときはやるせない。しかし、これも、数をこなしてこそのパターン化現象だと思って、自分を慰める。やはり、たくさんいけることは、それが余り意識的でなく惰性的であったとしても、それなりに大事だ。前にやったことがあるような、自分の過去のいけばなに再会するような気分になったとしても。

いけばな草月流 250128

2025/1/28

 24年間も門下にいながら、先日、初めて知った事実が2つあった。草月流の新春懇親会パーティーでのこと。パーティー会場の入口やステージ上の懸垂幕には、「いけばな草月流」と掲示されていた。
 しまった! この日この時まで、私は自分の思い込みに縛られて、事実誤認をしていたのだった。というのは、まず、「草月」と名乗るのと「草月流」と名乗るのと、どちらに正統性があるのかといえば、少なくとも今は「草月流」なのだろう。そして、「華道」か「いけばな」かといえば、「いけばな」なのだった。
 家元がおっしゃるのだから絶対なのだが、それでも食い下がってしまうのが私である。公式テキスト『草月のいけばな』には、「草月流」よりも「草月」表記が多い(数えたわけではない)。それから、中学や高校には「華道部」はあっても、「いけばな部」は知らない。
 私が用語にこだわるのは、言葉と心は不可分な関係だからである。正誤を問題にしたいのではない。表現が異なれば、必ずそれが意味する内容も異なっているはずなので、自分の行動をどう自覚しているかという大問題だからである。

どこも高齢化 250127

2025/1/28

 1月26日、愛媛県砥部町の町議会議員15人の当選者が決まった。平均年齢65.3歳である(立候補者17人の平均は63.8歳)。ちなみに私は64.8歳。電車に乗ってもデパートへ行っても、飲食店に行ってもホテルの朝食会場でも、自分に近い世代が多くて鬱陶しい。
 私がいけばなを始めた40歳の時、草月の愛媛県支部には20代、30代の会員もたくさんいて、未来が開けているように感じていた。それから少しずつ会員は減り続け、高齢化も進んできた。町村議員のなり手がいない自治体が出ているように、草月会愛媛県支部の役員選出も覚束なくなってきた。
 しかし、光明もある。そもそも華道なるものは、生涯続けられるものなので、仮に身体が衰えても、精神力である程度カバーできる。また、退職後の方が趣味に没頭できるというのは、父母のかつての様子を思い出しても明らかだ。
 さらに言うなら、退職して社会的なしがらみに囚われない表現ができることも強みだ。自分勝手な美意識を支えに好き放題をやって、結果的にそれが批判されようとも気に留めず、最高のわがままを振る舞える。

ほめ言葉 250126

2025/1/28

 けなされて喜ぶ変態は多くない。多くは、ほめられて喜ぶ。近年はほめて育てることが推奨されて、あまり𠮟ったり注意したりしない方がいいということになっているが、世代的に私はほめられ慣れていないから、のべつまくなしにほめられると逆に不信に感じてしまう。
 他人の批評が気にならない人は、よほどの強心臓である。よい批評でも悪い批評でも、なにもコメントがないより数倍は喜ばしい。しかし、よくよく考えてみると、他人の批評に一喜一憂する必要のないことに気付く。なぜなら、自分は、人とは少し違ういけばなを目指しているから、「ほめられるということは、他人の物差しの範疇から抜け出せていない」と自己否定するへそ曲がりな感性があったはずだからである。逆に否定されると、「他人が良いと感じる土俵から抜け出して、新しい境地に向かっているのかもしれない」と自己肯定する部分もある。
 まあ、へそ曲がりにとっては、どんな批評も毒にも薬にもならないのである。ほめられていれば素直に喜び、けなされていたら、むしろなおさら喜んで自分の道を進むくらいがいいのである。

見上げ続ける 250125

2025/1/27

 下から山頂を見上げた景色は神々しく、山頂から水平線を見渡した景色は壮大だ。
 富士山のように圧倒的な高い山は、見上げてただ拝むしかないが、中国山地や四国山脈のように山並みが広がり続く地形では、文字通り山あり谷ありである。習い事はこの地形に似ていて、いけばなも含めて、標高の低い海辺から平野を横切り時間をかけて山裾に辿り着き、ひと山を越えたら次のひと山を目指す息の長い旅を続けるのだ。
 旅路の始めには、いけばな世界の最高峰を見たことも感じたこともないから、とりあえず自分の経験の範囲で「高み」を設定するしかない。たとえば、私が見たことも行ったこともある石鎚山の高みを目標に据えるわけだ。ところが、やっとのことで石鎚山に登頂すると、遥か彼方に日本アルプスの存在を初めて感じる。そして、日本アルプスを踏破しに行く。今度はまた、富士山の高みを知って目がくらみながら次の目標に設定する。
 少しでも高みに登った者は、上には上があることを知る。下の方にいる限り、雲に遮られて本当の高みは見えない。だから、せめて雲の上まで行ってみる必要がある。

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