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いけばな随想
diary

倫理 240815

2024/8/15

私は、華道という言葉もいけばなという言葉も好きだ。ところが、華道と呼ぶにおいては心構えとか身繕いとか言われたりして、そうすると華道が儒教的な精神論を期待されているような窮屈なものになってしまう。私自身はさほど反発心がないからいいようなものの、伝統的な習い事に対して倫理的側面を嗅ぎ取って近寄らない人がいるのも、残念な事実だ。

暮らしの中での一般的なエチケットや、社会生活を送る上でのマナーについては、いけばなをやっていなかろうとも、意識して過ごす必要はあるだろう。

しかし、いけばなを芸術の仲間に入れるとすれば、少なくとも非常識(反常識)へと向かうベクトルに片足は乗っけることが、アーチストとしての条件でもある。そんな立場の人にいくらマナー違反と責め立てても、アーチストは深刻に受け止める必要はない。もともと彼らは、常識界とは異なった可能性を求めているのだから。

私は、現実的に世の中に騒乱を起こす心積もりも勇気もない。行動を伴わない以上、革命家への階段を上がっていくことはないというのが、自分に対する安心であり侮蔑でもある。

花と環境問題 240814

2024/8/14

いけばなをしていると、自然環境保全に関心のある人だろうと思われがちだ。間違ってはいないけれど、信用されても困ってしまう。私は、飲食物に対しても、あまり気にする方ではない。毎日8種類の薬を飲み続けなければならない体は、ほとんど毒されているからだ。地球人も地球も、かなり毒されていると思うのである。

花材がどこで生産されているか、食べる野菜ほどには気にしていない。気にするのならば、「花にも産地表示をしてくれ」とお願いせねばなるまい。実際のところ、花の流通にトレーサビリティは機能していない。

自分が活動する範囲で、多くの人は使う道具や材料について関心があるだろう。購入先や販売先にも関心が高いはずである。しかし、紅麹の問題で明らかになったように、日本国内での製造だから安心だとか、大企業だから安心だというのは幻想だとわかった。また、一般的な知識では、専門的な言質に太刀打ちできないこともわかった。

買う花が、無農薬で栽培されているのか減農薬栽培なのか、ハウス物なのか露地物なのか、どこまで意識的であるべきか、私は姿勢を示せない。

猿真似 240813

2024/8/13

習い事は物真似から始まる。お手本を何度も何度も真似ていく。そのうちに、真似ても面白くない手本や、真似ているうちに共鳴するような気持ちの高ぶる手本が現れて、次第に自分の好みや自分のスタイルも見え始める。

私は、早い時点でいけばなの好みが偏ってきて、自分のスタイルの幅が狭くなってしまった。いけない傾向だった。冒険が苦手だったのか、逆に冒険心が旺盛な自分をわかっていて自己抑制していたのか、安全地帯を飛び出すことをせず、小さな生活を送ってきた。

真似をすることは簡単だというのも、思い違いだった。猿真似は楽ちんだが、しかし、人の作品を真似るというのは、単に作品の見かけを真似るだけではなく制作の背景にある思想や心情を真似なければ、本当に真似たことにはならない。だから、真似たいと思った作品や作者に対する共鳴がなければ、本当の真似事には至らないのである。

ということは、共鳴をもとにした真似には、真似といいながらも本人の心の振動が制作に携わっているから、もう猿真似とはステージが違う。クラシックの楽譜を弾くピアニストも同じだろうか。

自然との闘い 240812

2024/8/12

自然との闘い。パリ五輪で北口榛花選手がやり投げで金メダルを勝ち取った際の、日本のテレビ番組でコメンテーターが取り上げた話題だ。やり投げはもちろん、屋外競技は何でも、気象条件に応じたコンディションづくりが非常に大事である。

小中学校で、私はサッカーをしていた。紳士のスポーツは天候によって試合が中止されることはないという心得を、何度となく聞かされた。それは、人間が自然に対して上位でいることを求めているのか、自然に負けない自己鍛錬が求められているのか、自然を受け容れて与えられた状況を愉しむことを求められているのか、幼い自分にはわからなかった。

さて、いけばな展の会場が屋外の場合、気象状況をとても気にする出展者もいれば、私のように何も気にしない者もいる。気象を気にする人は、どんな会場であっても、アクセスの悪さや集客の困難さ、照明の悪さやエアコンの風など、何かが気になってしょうがない。

いけばなにおける自然とは、闘う対象ではなく花材を提供してもらうパートナーなので、日照りも雨も風もなんのその、楽しくやり過ごすことが肝要だ。

いろいろ試してみること 240811

2024/8/11

パリ五輪で、北口榛花選手がやり投げで金メダルを取った。彼女はジュニア時代に、水泳で全国優勝、バドミントンでも全国優勝を果たしている。その後、やり投げを選んで世界を目指したが思うような成績を挙げられず、水泳のバタフライで名を成した松田選手に教えを乞いに行った。肩の使い方に共通点やヒントがあると睨んだそうだ。

北口選手に止まらず、アスリートは「出稽古」も盛んに取り入れる。コーチを換えることにも躊躇しない。

草月では、生徒都合で先生を換えることが、あまり大っぴらにできない風潮がある。私自身、少年時代に習っていた習字の先生が他界されたとき、紹介された新しい先生に就くことなく、習字そのものをやめた。「道」が付く習い事は、師匠との関係が排他的になってしまうものだろうか。習い事の選択肢が多くなり、人口は減少している状況で、その傾向が変わらないとするならば、それは滅びへの道を行くことになるだろう。

親を換えることは難しい。しかし、昔の「道」の捉え方ではなく、親子関係ではない友人関係に近い新しい「道」をつくる時期にきているようだ。

講師の事