職人と記名 240227
2024/3/3
私は、地方の中小企業にいて、役所や企業から印刷物の編集やデザインを受注していた。しかし、私の名前も、会社名も記すことはなかなか叶わなかった。「電通」とか「凸版印刷」などの大企業は、同様の仕事を受けると、巻末に企業名を記すことが許されたし、編集者等の個人名も記された。
製作物に製作者の名を記すことについて、私は基準を見出していない。たとえば、絵画や書にサインや落款があるのは当然だと思える。花器や食器の裏に銘があるのも構わない。ボールペンにメーカー表示があるのも、自動車にメーカーのエンブレムがあるのも容認する。
しかし、庭師がすばらしい庭園を設計・造園しても、その庭に目立つような形で庭師の名前が目立っていたら幻滅するだろう。また、玄関ドアや食器棚の扉に目立つような社名やなんかが入ることは許せない。ネクタイやバッグにブランド・ロゴがでっかくデザインされていると気恥ずかしい。
いけばなを飾るとき、いわゆる名札を出すべきかどうなのか、時と場合によるだろうが、どういう線引きをして出す・出さないを決めたらいいのだろうか。
弟子/教え子 240226
2024/3/3
東京で、教え子が素敵な作品を展示した。その素敵さは、誰にも感じられたものかもしれないが、私には特別な理由でより強く感じられた。
特別な理由というのは、かつて花展の合作で、彼らが私とともにつくった作品に通底する典型的な要素があったことだ。また、日頃のお稽古で見せてくれていた、彼らしいクセのある表現が明らかだったからだ。仲間にはひと目でそれとわかる隠された共通点、あるいはスタイルが、彼の最新の作品に見出せたことが嬉しかった。
社風とか校風というものがあるように、いけばなの社中にも「社中風」と呼べるものがあると思う。規模が小さいから家風に近い。そんな、刷り込みが行われるのは、親同様に喜ばしいことでもあり、恐いことでもある。
恐いというのは、私自身がまだ成長途上なので、私は誰かに影響を与えると同時に、影響を受ける立場だ。私が一方的に影響を与えるだけの強権的立場に立ってはならないという心配。
師匠と弟子、教師と生徒の関係はしょうがないが、私が相手を教え子と呼ぶとき、おこがましい一方的な立場に立たないようにしなければならない。
痩せていく時間 240225
2024/3/3
昨日という日は、あっという間に過ぎ去った。今日という日も、どんどん過ぎていく。
踏み止まろうと思っても、時間は雪崩のように崩れ落ちていく。いろいろとイベントがあった2日間でさえこうだから、イベントがない1日は、無意識のまま翌日になってしまう早さである。
かつて就業していた境遇で、私はいけばなと週1回・半日の付き合いだった。年間約50回で、たった25日分。そのペースでは、80歳まで手と頭が動いたとしても、25日×17年=425日。現在、機会が平均週2日に増えたので、1700日の見込みに増えた。それに今は、実家の庭仕事だとか、この日記のような随想を書く時間も含めると、花との付き合いは、のべ週3日の量になる……とかなんとか計算しても、残りの生涯でいけばなに取り組める日数は大したことない。
しかし、70歳くらいまでしか元気でいられないかもしれないので、いけばなに日々没頭して取り組めるチャンスはもっと少ないだろう。勉強でも仕事でも、趣味でも何でも、時間を掘り起こして耕すようにしなければ、“時間の畑”は痩せていくばかりだ。
いけばなをどう撮影するか 240224
2024/3/3
いけばなは空間をつくる。いけばなは空気の入れ物。
そんなことを予め言われて、フォトグラファーはどう撮ればいいのだろう。当然、ピントは花びらの1枚、おしべの1本に合わせられる。ところが、いけばなの人が、私は空間をつくったのです、この作品には気配を宿していますと七面倒臭いことを言うもんだから、空気にもピントを合わせる必要がある。かといって、空気空間にピントを合わせて、花にも葉にもピントが合っていなかったら、このカットの撮影は失敗したの? と失礼なことを言われてしまう。作者にしてみれば、花も空気も上手く撮るのがプロでしょうと、本気で思っているのだ。
結局のところ、いけばなをつくった本人に撮り方はわからないし、撮る側は、そのいけばな作品の意図する主題が見えにくい。それで、作品から距離を置いた写真と、作品の一部が画角からはみ出すくらいクローズアップした写真を両端として、その距離の間を埋める写真を何枚か撮ることになる。
皮肉なことに、広い空間の全景写真は平面的に見え、寄りに寄ってはみ出た写真は空気を含む奥行きと気配が写り込む。
いけばなを撮影する 240223
2024/3/3
平面的な描画では、主題のモチーフを「図」とすれば、背景や余白が「地」となって、それぞれの占める割合が、3:7とか6:4というふうに大雑把にはわかる。その比率がどうであっても、カンバス全体を撮影しておけば事足りる。
いけばなは、花材による造形部分が「図」だとしても、背景や余白にあたる空間の「地」がどの範囲にあるのか捉えにくい。1本の枝の葉の繁りの内部にも、枝と枝の組合せの内側にも余白があるし、外部空間には境界がないので、「このへんが地ですわ」と、その時々の感覚で決めたいのは山々だけど、これが面倒で決めかねる。
だから、いけばな作品の撮影を頼まれたフォトグラファーは、みんな困る。写り込む範囲(画角)を、勇気で決めるしかない。作者自身が決めていなかった作品空間を、フォトグラファーがエイヤッと決めて撮らなければならない。撮影データの縦横比を決めるのも、フォトグラファーの仕事で、たいていの作者はそんなことに無頓着だ。
いけばなの作者は、試し撮りの写真を見てから、細かくたくさんの注文を付ける。明る過ぎるだ、寄り過ぎだと……。