第三の目 250220
2025/2/21
いけばなの際に意識するのは、第一に自分の目、第二に他人の目。どのようにいけたいか追究する自分の目が軸になって制作は始まり、それを見てくれる他人の目を想像してあれこれ手直しをする。自分の目と他人の目を入れ替えながら、1つの作品が出来上がりつつあった。
きょう「全国くらしの器フェア」で、出展窯元の作品16点に愛媛の華道団体から16人が参加していけばなをいける機会が用意された。搬入・設営の合間に、私もいけばなをいけながら花器を提供してくれた人とお会いできた。これによって私の目に少し狂いが生じた。その壺には16万5千円の値札が付いているので、その価値を減じる花を入れては面目ないのである。花器をつくった人の目、これが第三の目として大きく睨みをきかせてきたのだった。
狂いが生じたと言ってしまったが、よりよい立ち位置を教えていただいたと言い換える必要がある。第三の目の出現によって私のプランは未完成だったと気付き、準備した花材だけでは完成しないと判断し、明日の朝、追加の花材を入れるとともに余分な葉を取り除くという結論に至った。
三角測量 250219
2025/2/20
いわゆる土木建築の三角測量のことではなく、この言葉の持つ感じがいいというだけのことなので御免なさい。
いけばなは空間的なものなので、どの角度からも見られてしまう宿命を負っている。かつて『モナリザ』を観にいった時、誰もが絵の正面から観たいばかりに押し合いへし合いしてポジション取りに余念がなかった。いけばなにも作者には正面はコチラという意図があるのだろうけれど、そこは絵画ほどではない。歩きながら見ると姿かたちが変わるさまは捨て難い。
考えてみれば、山の大木なんて下から見上げたことしかなかったではないか! それがドローンによって真上からもみることができるようになって、人間が見られる景色は倍増した。もとより日常生活では自分が止まっていても相手が動いていたり、またはその逆のことがほとんどで、自分も相手も止まっているなどということがあったらそれこそ特別なことである。
だから、いけばなをいける時、テキストの作例の正面写真にあまり縛られすぎることはない。たぶん免許写真のように互いが正面を向いた夫婦生活なども、考えたくはないだろう。
仲間同士は仲良くする 250218
2025/2/20
いけばなの世界は非常に狭い。意外なくらい狭い。その小さな小さな世界で流派や主義主張を越えて尊重し合うことなくしては、その世界がもっと分裂して小さくなってしまう。
表現者は自己の価値観や独自性を大事にするからこそ、表現者として立っていられる。だから「全く華道というものがわかっていない、ギラギラ血走ったいけばなをして!」と他人の作品をけなし、また別のところでは「あんな辛気臭いいけばななんて現代の誰が喜ぶの?」と毒を吐くのもわからなくはない。昔のフランスの芸術家同士などは、決闘したり流血騒ぎを起こすくらいだったのだから。
私にしても、基本的には自信家なので、他の華道家を人間として尊敬してもその作品のすべてをいいとは思わない。しかし、その作品を尊重することはできる。尊重は、好き嫌いとは別物だから。
今年度、私は「愛媛県華道会」に初めて入会したけれど、「愛媛県いけばな芸術協会」には加入しなかった。この件にしても納得感は薄く、全宇宙的には絶滅の危機に瀕しているいけばななので、木を見て森を見ずという態度は取りたくないものだ。
素人あなどれず 250217
2025/2/17
私がいけばなに打たれて入門したのは、25年前のこと。文字通り心打たれて感動してしまい、いけばな展のその場で入門もしたし、入門した理由を周りの人たちに熱く語った。いけばなに全く不案内の私が受けたその時の印象は、いけばなの経験を積み始めて以降は味わったことのない強いものだった。
なぜ素人の感受性が勝っているかというと、おそらく作品を論理的または経験的な解釈として見ることができないために、本能的または感覚的に曇りなく見ることができるからだろう。それを世の中では「素人感覚」と呼んで蔑視するのだが、その方がよっぽど多数の人々を代表する感覚だし、対象の作品を先入観なく見られる。
料理を食べて「美味しいわぁ」と言うとき調理師資格が要らないように、「すてきだわぁ」と感動するのにいけばなの免状は要らないのだった。それなのに、最近の私は権威主義的な評価に傾きがちだったことは否めない。
自分への反省を込めて言うと、リラックスして対象を素直に楽しむという基本的な態度が取れない人は、音楽を聴いても人前で体を動かすことを躊躇する人である。
砥部焼体験 250216
2025/2/16
体験などというものは知らず知らず向こうからやってくるのだが、今日は砥部焼の窯元に分散して“計画的に”体験に行くという草月会愛媛県支部の研究会の2回目だった。
企画意図は「自分好みの花器をつくる」ということであり、「花材のひとつでもある花器に対する理解を深める」でもあり、研究会である以上、高邁な目的を掲げなくてはならない。
しかしながら、やり始めてまずぶつかるのが「思い通りにならない」という現実である。いけばなをしている人は、比較的陶磁器について馴染みがある分できちゃうんじゃないかと勘違いしているのだった。自分は器用な方だとも思っているから始末が悪い。実力以上の妄想が湧いていたのをなかなか抑え込めないから、指導する窯元の心配は最高潮だ。こちらは陶作は普段やっていないことだし自分の専門外のことなので、失敗するのが当然だとばかりに突っ走ろうとする。
いけばなは結果だけを追い求めない。過程も事前事後のあり方も求めるし、考え方や態度も大事にする。今日の土遊びの無心さや「やっちまう勢い」が、日頃のいけばな稽古にも必要だろう。