汀州Japanlogo 汀州Japanlogo

いけばな随想
diary

商神祭 251205

2025/12/5

 松山商業高校の文化祭は商神祭と名付けられていて、毎年この時期の開催だ。商いというのは、お金を払う者と商品を売る者とのコミュニケーションで、その関係がより良くなるなるように差配しているのが商神なのだろうと勝手に思っている。その商神との交歓の場が商神祭だ。
 今年の華道部員は17人。昔はもっとたくさんの部員がいたと聞く。商業高校から直接就職する生徒も少なくなってきた。かつては、百貨店や銀行などに就職して、企業の華道部に所属することも普通にあったとも聞く。
 さて、いけばなの起源説のひとつは、神様に降臨していただく依代として竹などを立てたことが原形である。その流れを引けば、いけばなは商神を招き入れるために重要な役割を演じていると考えられる。高額商品を扱う店頭には、だから今でもいけばなが凛と座っている。あれは単に艶やかな花がお客様をお迎えするだけでなく、神様をお招きして、おろそかにできない商談の場を浄めるためでもある。
 唯一絶対神に対する信仰はない。しかし私も、事あるごとに「神様、仏様!」と連呼する典型的な日本人の1人である。

陶酔 251204

2025/12/4

 スポーツ観戦が趣味の人にとっては、しょっちゅう熱狂している感覚もあるだろう。しかし、いけばな鑑賞に熱狂はなく、陶酔するほどの状況に至ることも稀有だ。スポーツ観戦の気分の高揚が超短波だとすれば、いけばな鑑賞のしかたは超長波なので、変化が微妙過ぎて気分が上がっていることさえ本人にもわからない。
 見る側はそんな調子であり、花をいける側はどうかというと、趣味といえども瞬間的に気分が沸騰することは考えられず、いけばなに酔い痴れるとしたら、じわじわと丸一日がかりの長時間が必要になる。あるいは、常態がヘベレケのボケ老人の姿ではなかろうか。
 何かに没頭するというのは、頭だけでなく心も没してしまう状態だ。この状態になると、労力・時間・カネ全てへの留意が失われる。そして、これらを失った者は幸いである。その時点で、趣味はもう単なる趣味であることをやめて、信仰となっているからである。信仰は、法律や論理や損得に優先する。
 そんな自分にふと気付いたとしても、自己否定することが怖くて、現代の多くのいけばな教授が宣教師の顔付きになっているのだ。

風格 251203

2025/12/3

 私には、いけばなそのものを楽しんでいる一面と、いけばなを通して品格を身に付けたい一面とがあった。
 まず、いけばなを始めた頃は、もっぱら前者だけが動機であり目的でもあった。そして、人に教えようという立場に身を置いてからは、後者の意味合いが大きくなっていった。とはいえ、日本人としての立居振舞に磨きをかけることに関しては特に茶道に顕著で、華道と呼ばずいけばなと呼ぶときには、その意識は希薄だと感じている。
 それで、先般から気になっているのが風格である。品格よりも風格のあるほうが威風堂々としていて、教える立場の人間として適格なのではないだろうか。現代社会では、パワハラ以上にカスタマーハラスメントが話題に上る。これは、委縮した教師や上司や売り手が、ヘタに品格ある態度を取っているから助長される現象だ、多分。風格のある教師や上司が接すれば、カスハラはもっと減るのではないかと思う。
 品格は努力すれば高められるのに対して、風格は努力だけで身に付くものではない。そしてまた、若くして得られるものでもないだけに、さらに希少な特長であろう。

稽古は大事 251202

2025/12/2

 いけばな歴70年の先生と話をすると、教育の問題が見える。教える側からの圧力と教わる側の甘えとの割合がこの50年間で大逆転していることに、50年以上生きてきた人は分かっている。しかし、25年くらいしか過ごしていない人には甘えの自覚はないだろう。そして、そういうことを言うこと自体が古い感覚だとして非難される。
 子どもに接するとき、日本では子ども目線に合わせて屈んで話せと言われる。40年間ロンドンに住んでいる私の同級生は、イギリスの子どもは早く大人の目線の高さに合わせられるように、いつも背伸びをしているんだと言っていた。子どもに合わせていたら世の中が幼稚になるという考えが基本にあって、大人の世界に子どもを易々と招き入れることもしない。
 例えば、柔道など武道の稽古で、師匠が弟子に合わせて優しく接していたら、試合での大怪我が絶えない事態になるだろう。稽古事というのは、小事ではなく大事なのである。
 ある到達点に達していない者にとって未知なるもの、理解の外にあるものを知らせたいという欲望を、いけばな教室というヤワい場で出せるかどうか。

金木犀の剪定 251201

2025/12/1

 ついに5日目に至った。3日に分けて、金木犀の剪定を完了させる計画だった。
 10年前に自分で剪定を始めた頃は、どこをどう切れば良いのかわからず、恐る恐る抓み揃える程度しかハサミを入れられなかった。2年3年経っても、弱気な剪定だったので、庭木はどれもこれも大きくなってしまった。さすがに困って、思いきり丸裸に大きく枝を落としたら、今度はやり過ぎで新芽が育たず翌年の樹形は惨憺たるものだった。
 そんなこんなを経て、庭の様子もだいぶ落ち着いてきた。私の腕の成長を認めてくれたのかどうか、向かいの家の奥様が「金木犀、まん丸にせんのーぉ?」と、リクエストを出してきた。彼女の家の2階にある玄関を開けると、まっすぐにウチの金木犀が目に入る位置関係なのだ。
 人間は、過去の栄光にしがみついたり、身に付けた知識や技術へのこだわりを捨てられなかったりするが、庭木というのは凄いものだと感心する。切っても切っても、翌年にはちゃんと花を咲かせて幹は太る。こちらのケアの仕方が間違っていても、薬剤や肥料をちゃんと施さなくても、何とか自力で踏ん張っている。

講師の事