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いけばな随想
diary

枯れること 250313

2025/3/14

 枯れそうだ、枯れてしまった……枯れると言っても、その指し示した植物の生物学的な死がどの時点になるか私には明言できない。そして、キレイな枯れ方をした……枯れることは必ずしもマイナスイメージばかりではない。いけばなでは、むしろ枯れた花材を「枯れもの」と呼んで重宝する。
 自分では意識していなくても、歳をとった「枯れ者」の発言には枯れた感が混じる。立ち上がったり座ったりするとき、別に痛くもないのに「イテテテテ」とつぶやいたり、自分の思い通りにならない案件にぶつかっても、面倒臭くて何でも「まぁエエか」と流してしまうなども、他人を見ていて共感できるようなら自分も歳をとった証拠である。
 直売所の花卉売場にはたくさんの生産者の花が並ぶ。商品の形状や鮮度保持の手間などから推測すると、野菜売場よりも品質管理が難しい。とりわけ難しいのが、枯れるのはまだいいが腐らせないようにすることだ。水に浸すにも水温や滅菌や水量が問題となるし、花と花との圧迫具合や枝同士の絡みで商品が傷みやすい。
 手をかければかけるほど花は腐らずに枯れてくれるようだ。

読む 250312

2025/3/14

 読むのはたいてい本だ。新聞も読む。私はあまりテレビを見なかったが、最近はネットニュースをよく読む。私はサッカー少年だったので、拙いながらも試合で相手の攻撃パターンも読んだ。学校の試験の時期には教科の先生の出題傾向を読んで山を張ったこともあったように思うが、当たったかどうかは覚えていない。親に小遣いをねだってよいタイミングかどうかは、とても念入りに読んだ。思春期には(いつ頃のことをそう呼べばいいかわからないけれど)、相手の気持ちを読もうとしてほぼほぼ読めなかった。
 読んだり、読もうとしたり、読まれたりするのは相手があるからである。ジキルとハイドでもない限り、自分の心を自分が読むことはない。自分以外の相手の心や考えを読もうというのだから、相手に神経を集中させなければ果たせないことである。
 いけばなの花材の状態について、私はいつも読んでいる。人間や動物には表情や態度があるから百発百中でないにしても読めるような気はするが、植物には表情筋がないから喜怒哀楽が読みにくい。25年かかって、彼らの体調は少し読めるようになった。

一期一会のいけばな 250311

2025/3/13

 いけばな界の活性化を目指した企画書を作っていて、なかなかまとまらないので思い出したのが生成AIである。先日、それを活用して企画書を書いたという知り合いに、改めて使い方を聞いた。彼曰く「相当優れモノですよ」。実は数か月前にもそのアプリをスマホに入れようと思ったのだが、気乗りがしなくてほったらかしで忘れていたのだった。
 別の人からも聞いた。2万数千円でスマホに貼り付けて使うAI機器を買ったところ、ミーティング内容を要約して文字起こしまでやってくれて「超便利!」だそうである。
 デジタルであるという制約はあるにしても、たとえば音楽(作曲)や絵画(ドローイング)は、タブレットで制作できてしまう。3Dプリンタで住居がつくれるくらいだから、造形的ないけばなもつくれるかもしれない。しかし問題は施工ではなく構想である。
 建物の設計図やパースを描くように、いけばなのアイディア・スケッチができるものなのだろうか。いけばなは、花材の枝の硬さや太さ枝の張り具合や節の状態が異なるから、1本1本を目と手で確かめながら一期一会でいけるのだが。

イメージと技術 250310

2025/3/13

 スポーツであれ企業経営であれ、先行するのはイメージだと思う。成功イメージや達成イメージがあって、それを実現させるために技術や戦略を練り上げる。
 技術に関しては、人々の生活を便利で豊かなものにするため進歩してきた。それは家電や通信機器などの身の回りの物や、AIの実用化や、建設や発電などの社会基盤に関わる設備など本当にあらゆる隅々にまで至る技術の進歩だった。そして私もその恩恵にあずかり、快適な生活を送ってきたのは間違いない。
 ところがこの年齢になって技術の進歩に追い付けず、逆にストレスの方が大きくなってしまった。私を追い越してしまった技術に「早く来い」と言われ、新しく追い迫ってくる技術に「早く行け」と急き立てられて、なすすべのない私は途方に暮れるのだ。快適が約束されていたはずなのに、私にとっての技術は今や不快製造システムになってしまった。特にデジタル化が不快の根源である。
 電池時計もソーラー時計も捨てることはしないが、機械式腕時計は自分の味方のような気分で愛おしいし、いけばなもアナログな作業の代表格だから続けられる。

ゴミのいけばな 250309

2025/3/9

 流木や枯枝がいけばなに使われているのを見て、ゴミみたいだと思ったことがあったらそれは幸せなことではない。家庭ゴミから核のゴミまでゴミ呼ばわりされるものはたくさんあって、ゴミに共通しているのは1つ1つが固有の名称で呼ばれないことだ。
 ゴミに似ている存在として雑草がある。これも個別の名前で呼んでもらえない。ゴミとゴミでないもの、雑草と雑草でないものの境界はあいまいで、誰もはっきりとは線引きできない。
 絵画展に行くと、作品の横に作品名と作者が掲示されている。制作年や画法とか画材を書いていることはあっても、どこのメーカーの何色の絵具を使っているかは書いていない。観客は絵具を見に行っているわけではないからだ。
 勇気がなくてやったことはないけれど、雑草のいけばなやゴミのいけばなを展示してみたい。これは、いけばなを見てくれる人への踏絵のような挑戦で、使っている花木の名前を見て得心がいく人は、花そのものを見に来ている可能性が高い。「花材:ゴミと雑草」で見入ってくれる人こそが、花よりもいけばな全体を作品として見てくれていると思う。

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