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いけばな随想
diary

一期一会のいけばな 250311

2025/3/13

 いけばな界の活性化を目指した企画書を作っていて、なかなかまとまらないので思い出したのが生成AIである。先日、それを活用して企画書を書いたという知り合いに、改めて使い方を聞いた。彼曰く「相当優れモノですよ」。実は数か月前にもそのアプリをスマホに入れようと思ったのだが、気乗りがしなくてほったらかしで忘れていたのだった。
 別の人からも聞いた。2万数千円でスマホに貼り付けて使うAI機器を買ったところ、ミーティング内容を要約して文字起こしまでやってくれて「超便利!」だそうである。
 デジタルであるという制約はあるにしても、たとえば音楽(作曲)や絵画(ドローイング)は、タブレットで制作できてしまう。3Dプリンタで住居がつくれるくらいだから、造形的ないけばなもつくれるかもしれない。しかし問題は施工ではなく構想である。
 建物の設計図やパースを描くように、いけばなのアイディア・スケッチができるものなのだろうか。いけばなは、花材の枝の硬さや太さ枝の張り具合や節の状態が異なるから、1本1本を目と手で確かめながら一期一会でいけるのだが。

イメージと技術 250310

2025/3/13

 スポーツであれ企業経営であれ、先行するのはイメージだと思う。成功イメージや達成イメージがあって、それを実現させるために技術や戦略を練り上げる。
 技術に関しては、人々の生活を便利で豊かなものにするため進歩してきた。それは家電や通信機器などの身の回りの物や、AIの実用化や、建設や発電などの社会基盤に関わる設備など本当にあらゆる隅々にまで至る技術の進歩だった。そして私もその恩恵にあずかり、快適な生活を送ってきたのは間違いない。
 ところがこの年齢になって技術の進歩に追い付けず、逆にストレスの方が大きくなってしまった。私を追い越してしまった技術に「早く来い」と言われ、新しく追い迫ってくる技術に「早く行け」と急き立てられて、なすすべのない私は途方に暮れるのだ。快適が約束されていたはずなのに、私にとっての技術は今や不快製造システムになってしまった。特にデジタル化が不快の根源である。
 電池時計もソーラー時計も捨てることはしないが、機械式腕時計は自分の味方のような気分で愛おしいし、いけばなもアナログな作業の代表格だから続けられる。

ゴミのいけばな 250309

2025/3/9

 流木や枯枝がいけばなに使われているのを見て、ゴミみたいだと思ったことがあったらそれは幸せなことではない。家庭ゴミから核のゴミまでゴミ呼ばわりされるものはたくさんあって、ゴミに共通しているのは1つ1つが固有の名称で呼ばれないことだ。
 ゴミに似ている存在として雑草がある。これも個別の名前で呼んでもらえない。ゴミとゴミでないもの、雑草と雑草でないものの境界はあいまいで、誰もはっきりとは線引きできない。
 絵画展に行くと、作品の横に作品名と作者が掲示されている。制作年や画法とか画材を書いていることはあっても、どこのメーカーの何色の絵具を使っているかは書いていない。観客は絵具を見に行っているわけではないからだ。
 勇気がなくてやったことはないけれど、雑草のいけばなやゴミのいけばなを展示してみたい。これは、いけばなを見てくれる人への踏絵のような挑戦で、使っている花木の名前を見て得心がいく人は、花そのものを見に来ている可能性が高い。「花材:ゴミと雑草」で見入ってくれる人こそが、花よりもいけばな全体を作品として見てくれていると思う。

異質素材のいけばな 250308

2025/3/8

 草月テキスト3-11は「生の植物と異質素材」だ。枯れものや着色花材など、生の植物に由来するものは対象外。ストローや紙コップや自転車のタイヤや蚊取線香など、何を使っても構わない。というよりも、生の植物ではない物を必ず使えという指示なのである。
 昨日のミニピアノ演奏会は、「楽器と準楽器と異質物」でソロ演奏された素晴らしいものだった。楽器だけで演奏する方が音楽的には質の高いものになるという思い込みがあったから、楽器でない玩具を使うことで演奏の質が落ちる心配が私にはあった。演奏者も妖精のようなコスプレだし、シンバルを叩く猿の玩具やピロピロ音が出る紙笛や乳幼児向けのおもちゃが、ミニピアノの周辺、演奏者の手の届く範囲に30を越える数で並べられ、その空間自体がドールハウスのように設えてあった。おもちゃのチャチャチャの世界である。大丈夫か?
 ところが演奏は凄かった。サーカス村の雰囲気と不思議の国のアリスの世界が混じったような、視覚効果抜群の演奏会だった。いけばなでの異質素材の使用も普及はしたが、それで最高作をつくるのは難しい。

名前 250307

2025/3/7

 きのう散髪に行った。高齢夫婦と義理の娘さんの3人で、床屋であり美容室でもある1軒を営んでいる。床屋の親爺さんにバリカンをあててもらっていると、女性2人からガラス花器に挿された葉っぱを顔の前に持って来られて、「この葉っぱから出ている変なのは花ですか? これは何ていう草かご存じですか?」
 見たことのある植物だったが、名前を思い出せない。バリカンが終わって「ルスカス」の名が浮かんだ。娘さんに検索してもらうと当たっていた。名前がわかると旧知の仲だったかのように身近に感じられた。
 きょう小さな音楽会に行った。ギャラリー・リブアートの『思い出す場所』というタイトルの2人展に寄せた、1回限りの特別な演奏会だ。40鍵盤のミニピアノと猿のシンバルや様々な玩具の楽器たちを1人で同時演奏する。とても素晴らしかった。聞きながら、行ったことがないイギリスの田舎町を思い浮かべた。演奏者の名前は演奏直前に知った。keipyanという不思議な女性だった。
 馴染みのない綴りと音の名前なので、遠い世界の暗号のようにも感じられた。まだ見ぬ町の懐かしさがこみ上げた。

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