アール・ド・ヴィーヴル 250810
2025/8/10
パトリス・ジュリアンという親日のフランス人がいる。東京周辺でレストランを経営したり、『生活はアート』『いんげん豆がおしえてくれたこと』などの著作がある。だから料理人やエッセイストの肩書を持っているが、「元ライフスタイルアーティスト」という面白い肩書もある。
このライフスタイルアーティストとして、自著の中でも語っているのが「art de vivre(アール・ド・ヴィーヴル)」である。この言葉は、人生と芸術は土俵が別々ではなく、暮らし=アートというくらい芸術が日常に息づいているという状態を表している。広い解釈では、日常生活のあらゆる場面において自分らしく生きることを追求する姿勢を指す。アートが自分らしさに直結するという常識が、フランスっぽいところだろう。
パトリスが語っている内容は、日本人が昔から思っていた(日本人は思ったことを語らないで黙っているが)内容と大差ない。身の回りの物を大切にしよう、無駄をなくそう、そして生活の質を高めようというものだ。
生活の質について日本人がより積極的に取り組むと、いけばなのある暮らしということになる。
枕草子 250809
2025/8/9
夏は夜……。清少納言にとっては、月夜もそして闇夜も同じように趣きがあって好ましいようだ。
さて、今晩の風は、雨の前触れで湿ってはいるけれど涼気を含んでいて心地よい。日本人は、包容力があるというか我慢強いというか、暑くてもいい感じだし寒くてもいい感じなのである。風がなければすっくと立つし、風が強ければなびけばいいということで自分に強制した姿勢はなく、柔道のような構えで状況対応力があるともいえる。
日本的な美を求めた東山魁夷も、広く美術全般の教養を高めるために渡欧して西洋美術を学んだ。彼は人の暮らしぶりが美術表現にも表れると考えて、積極的に西欧の暮らしを楽しんだ様子もある。このような日本人的態度は、時に優柔不断と揶揄されるかもしれないが、何事も決め付けてかからない「たおやか」な性質の表れだと思う。
枕草子では、「春はあけぼの」「秋は夕暮れ」「冬はつとめて」と、四季折々の好ましさを見出している。我々いけばなをする者も、好みの花材があることは当然としても、二十四節季を彩るさまざまな花材に分け隔てなく親しみたいものである。
花の名前 250808
2025/8/9
お稽古の花材でソテツの葉を用意したことがある。花材名を「ソテツの葉」と生徒さんに提示した。別の日には「ソテツ」と提示していた。
先日、花材でツバキを用意して出すと、生徒さんからツバキは花がなくても使うんですねと(若干の不満を感じさせる面持ちで)言われ、「ツバキ」と聞いたら花が咲いている様子をイメージするものなんだと改めて気付かされた。花がない場合、「ツバキの葉」と言ってあげた方がよいのだろうか。
常識の範囲の話として、いけばなで使う花材はだいたい根っこより上の部分を使うから、「ソテツ」と書いても「ツバキ」と書いても、誰も根っこが付いているとは思わない。しかし、正月に使う根の付いたマツは、「根引きの松」という特別な名で呼んであげる慣例だ。つまり、常識や慣例に照らして一般的でないもの、例外的だったり特別だったりするものに、説明的な名前を付加する。
だから普段は、玉井が足で走ったとは言わなくていい。玉井は口で喋ったとは言わなくていい。けれども、心で呼びかけたりテレパシーを使う時は、そう言ってあげないと気持ち悪がられる。
秘密の花 250807
2025/8/8
草月の勅使河原蒼風を知って、いけばなには奥義があるのだということを強く思う。その奥義は、特に秘密めいたものではないのに、ただそれを言葉にして説明しがたいというだけで敬遠されがちだ。そして、奥義を理解している(または無自覚に体得している)かどうかは、生活の便宜上いけばなをしている者にとっては、ほとんど意味のない雑音でしかない。
身も蓋もない言い方をすると、何ものをも突き詰めるというやり方は、健やかな生活の場においては無意味で面倒臭い処世術なのである。
さて、「秘すれば花なり」の意味を、今ではAIが見事に回答してくれる。その回答自体に秘したものがないから、それを鵜呑みにすると、秘すという行為が単に隠すことと同義の狭い意味合いになってしまう。隠すことで見る人の興味を深めるというのでは、ストリップ劇場の説明と同じことになる。ちなみに、私はストリップにもプロレスにも、その演出と演技に一目置いているが。
世阿弥が能楽を論じた『風姿花伝』のタイトルの「花」は、「秘すれば花」の「花」同様、その一語に無限の意を持たせていると思う。
いけばなを知る 250806
2025/8/7
いけばなを習い始めて25年、だいたい3周くらい陸上トラックを回ったような感じ。同じトラックを周回していて、それでも1周毎に知識の深さも見える景色も変わるものである。1周目は知識がないから、脇目をふる余裕すらなかった。2周目は知識が足りないから、ムダな考えやムラのある行動が多かった。3周目で解ったような気になって、一生懸命さが足りなかった。
そしていま、4周目に入ったところだ。ここに来て、いけばなをするためにどうしても知らなくてはならないということはあまりないことを知る。それよりも、自分で考えて自分が決めるという態度で臨むことが、いかに難しいことかを知った。我こそはと気負うわけでなく、逆に師匠の言うことが絶対でもない。まして、家元でさえ、自分のスタイルと瓜二つのいけばなを誰かにやられたら、変な気分になることはあっても嬉しくないだろう。
知らないことには一切影響を受けなくて済むというのに、知れば知るほど、知ったことにがんじがらめになる。
真面目な人は、他人の作品を調べるし参考にする。それでいいのだろうが、よくもない。