ルール 250927
2025/9/27
子どもの遊びは、真剣であればあるほど無邪気でもあったように思い出す。松岡正剛さんによれば、遊びには「ごっこ」「しりとり」「宝さがし」の3類型があり、これは、学習のパターンにも当てはまるという。そして真剣に、且つ無邪気に遊べる条件として、ルールが複雑過ぎないことが大事なのだとも。
確かに大人社会にはルールが多くて、遊ぼうと思っても種々細々したルールの網の虜にされる。いつも状況や条件などを見回して、自分が社会から逸脱していないか、後ろ指を指されることはないか、気配りを絶やせない。
そういえば、出会ったその日から、私とゴルフとの相性は悪かった。決めごとの多い種目だったからだろうと今になって合点がいく。その後、シーカヤックやいけばなに心惹かれたのは、どちらにも「ない」ものが沢山あったからだろう。時間制限、道具制限、人数制限、場所制限……挙げていけばキリがない。
大人の遊びも、ルール上のアソビが大きいと助かる。仮に我を忘れて没頭しても逸脱しない程度の決め事しかないという鷹揚さ、だから私はいけばなを続けていられるのだと思う。
天啓 250926
2025/9/26
技芸の継承は口伝や書物によるバトンタッチ形式だ。華道の場合も、どこかの師範の門下となって公式テキストが与えられ、順を追って考え方や技術をモノにしていく。
家元ご本人も常に研鑽し続けることを世間や身内から求められ、自作テキストを日々アップデートしなくてはならない。1つ1つの型はすべて、いけばな草月流の奥義に踏み込みかけている(はずだ)から、私たち門下の者は、いくらか稽古を積んでいくうちに「これが奥義だろうか、あれが奥義だったのだろうか」と、奥義にかすかに触れたような、心に光が射す瞬間が何度か出てくるようになる。
しかし、数日の後に冷静になって振り返ると、それは改めて言語化してまとめ直すには幼稚な解釈だったことが自覚されて、せっかく出くわした喜びは単なる思い込みだったとして捨てなければならない。
口伝やテキストによる継承は、地球の表面を水平的につなげていく。しかし、1人の天才による突発的な気付きというか覚醒というか、水平的に広がる地理や歴史とは無縁に、天啓と呼ぶべき科学的発見や芸術的表現が降りてくることも期待したい。
創作という非合理 250925
2025/9/25
母校の文化祭で手に取ったのは、文芸・俳句部の年刊誌。たまたま開いたページに、「創作という非合理」の表題で1年時の中津くんが書いていた。
その文章は、俳句甲子園に初出場した不安や苛立ちを低音部で奏でながら、創作におけるインスピレーションとしか言いようのないものを説明しろと要求される圧力に抗いたい自分と、他人が勝手に自分の作品を解釈する腹立たしさと、最後にはその2つの強迫に向き合って、来年は血祭りにあげられようともリング上で闘うことを覚悟する自分というメロディーが展開する。何という神話的な物語だろう。
しばし、美術部員だった16歳の自分が情けなくなったし、今年の美術部員、書道部員、写真部員、華道部員にも、中津くんの爪のアカを煎じてやりたかった。創作というのは、技術やセンスが大事でも、意識や態度が伴わなければ表現が成就しない。
いけばなも、花材をありのままに扱っていてはダメだ。創作は、人間の意識的行為によって紡ぎ出されるフィクションだ。言葉や花が喋ることを期待しても無理で、自分の表現をまな板に載せなければ始まらない。
時を経て 250924
2025/9/24
効率化を求める気持ちは、わかる。寿命には限りがあるのだから、少しでも多くを見たり聞いたりしたいし、やってもみたい。しかし急ぐと見えないものがある。一瞬見えた気がして見失うものも多い。
私の庭先には流木がいくつも転がっていて、季節に数回あっちへ持って行きこっちへ動かすというようなことをして、朽ちていき欠けてゆくことを繰り返しながら姿を保っている。昨年は、いちばん大きな流木に蟻が巣作りしたのを見つけ、日中の焼けたアスファルトの熱と夜の水攻めを繰り返して、どこかへ移住してもらった。ゆっくり過ごしていれば、それはそれでいろいろなものが見える。
存在感が大きいため使い辛くはあるが、そんな流木のような年月を経た“枯れもの”を、新鮮な切り花と共に使うことがある。しかし花材はともかく、出来上がったいけばな作品は、経年変化を楽しむことができない儚さだ。
人を写した写真は何十年経っても生々しさが蘇るのに、いけばなの写真はそれほど心ときめかない。だから最近は、作品だけではなく、制作者のにこやかな顏も入れたスナップ写真を撮るようにした。
見ないこと 250923
2025/9/23
たとえば、初恋が成就したと勘違いした人生最良の日を、人は毎日繰り返して生きたいだろうか。私にとっては、細部まで同じ1日がもう1日繰り返されることは、どんな佳き日が再現されるとしても地獄の1丁目である。
目覚めてから次の眠りに至るときまで、その1日に目にした全てのものを覚えておくことはできない。はじめからほとんどのものを忘れるのが人間ならば、覚えるものも見るものも最小限に絞っておくのはどうだろう。
または、フィルムカメラにフィルムを装着せず常にシャッターを開放しておくように、目に映ったどんな光景も網膜に焼き付けないでおけば、思い出す必要に迫られないというものだ。
現実的な行動として、私はいけばな展に行ったとき、直感的に「パス」と感じた作品は知覚しないでただボーッと見る。目に焼き付く暇がないくらい早く、そして脳との連絡を意識的に絶って。そのかわり、「コレ」と感じた作品の前では、左からも右からも、近くからも遠くからも、下からも裏からも覗き込む。これは、いくつかを見ないことによって別の大きな時間が得られたことを意味する。