陶酔 251204
2025/12/4
スポーツ観戦が趣味の人にとっては、しょっちゅう熱狂している感覚もあるだろう。しかし、いけばな鑑賞に熱狂はなく、陶酔するほどの状況に至ることも稀有だ。スポーツ観戦の気分の高揚が超短波だとすれば、いけばな鑑賞のしかたは超長波なので、変化が微妙過ぎて気分が上がっていることさえ本人にもわからない。
見る側はそんな調子であり、花をいける側はどうかというと、趣味といえども瞬間的に気分が沸騰することは考えられず、いけばなに酔い痴れるとしたら、じわじわと丸一日がかりの長時間が必要になる。あるいは、常態がヘベレケのボケ老人の姿ではなかろうか。
何かに没頭するというのは、頭だけでなく心も没してしまう状態だ。この状態になると、労力・時間・カネ全てへの留意が失われる。そして、これらを失った者は幸いである。その時点で、趣味はもう単なる趣味であることをやめて、信仰となっているからである。信仰は、法律や論理や損得に優先する。
そんな自分にふと気付いたとしても、自己否定することが怖くて、現代の多くのいけばな教授が宣教師の顔付きになっているのだ。
風格 251203
2025/12/3
私には、いけばなそのものを楽しんでいる一面と、いけばなを通して品格を身に付けたい一面とがあった。
まず、いけばなを始めた頃は、もっぱら前者だけが動機であり目的でもあった。そして、人に教えようという立場に身を置いてからは、後者の意味合いが大きくなっていった。とはいえ、日本人としての立居振舞に磨きをかけることに関しては特に茶道に顕著で、華道と呼ばずいけばなと呼ぶときには、その意識は希薄だと感じている。
それで、先般から気になっているのが風格である。品格よりも風格のあるほうが威風堂々としていて、教える立場の人間として適格なのではないだろうか。現代社会では、パワハラ以上にカスタマーハラスメントが話題に上る。これは、委縮した教師や上司や売り手が、ヘタに品格ある態度を取っているから助長される現象だ、多分。風格のある教師や上司が接すれば、カスハラはもっと減るのではないかと思う。
品格は努力すれば高められるのに対して、風格は努力だけで身に付くものではない。そしてまた、若くして得られるものでもないだけに、さらに希少な特長であろう。
稽古は大事 251202
2025/12/2
いけばな歴70年の先生と話をすると、教育の問題が見える。教える側からの圧力と教わる側の甘えとの割合がこの50年間で大逆転していることに、50年以上生きてきた人は分かっている。しかし、25年くらいしか過ごしていない人には甘えの自覚はないだろう。そして、そういうことを言うこと自体が古い感覚だとして非難される。
子どもに接するとき、日本では子ども目線に合わせて屈んで話せと言われる。40年間ロンドンに住んでいる私の同級生は、イギリスの子どもは早く大人の目線の高さに合わせられるように、いつも背伸びをしているんだと言っていた。子どもに合わせていたら世の中が幼稚になるという考えが基本にあって、大人の世界に子どもを易々と招き入れることもしない。
例えば、柔道など武道の稽古で、師匠が弟子に合わせて優しく接していたら、試合での大怪我が絶えない事態になるだろう。稽古事というのは、小事ではなく大事なのである。
ある到達点に達していない者にとって未知なるもの、理解の外にあるものを知らせたいという欲望を、いけばな教室というヤワい場で出せるかどうか。
金木犀の剪定 251201
2025/12/1
ついに5日目に至った。3日に分けて、金木犀の剪定を完了させる計画だった。
10年前に自分で剪定を始めた頃は、どこをどう切れば良いのかわからず、恐る恐る抓み揃える程度しかハサミを入れられなかった。2年3年経っても、弱気な剪定だったので、庭木はどれもこれも大きくなってしまった。さすがに困って、思いきり丸裸に大きく枝を落としたら、今度はやり過ぎで新芽が育たず翌年の樹形は惨憺たるものだった。
そんなこんなを経て、庭の様子もだいぶ落ち着いてきた。私の腕の成長を認めてくれたのかどうか、向かいの家の奥様が「金木犀、まん丸にせんのーぉ?」と、リクエストを出してきた。彼女の家の2階にある玄関を開けると、まっすぐにウチの金木犀が目に入る位置関係なのだ。
人間は、過去の栄光にしがみついたり、身に付けた知識や技術へのこだわりを捨てられなかったりするが、庭木というのは凄いものだと感心する。切っても切っても、翌年にはちゃんと花を咲かせて幹は太る。こちらのケアの仕方が間違っていても、薬剤や肥料をちゃんと施さなくても、何とか自力で踏ん張っている。
闇のいけばな展 251130
2025/11/30
夜は暗いものであり、とりわけ日本の家々の夜は昔からあまり明るくなかったと思う。松明のような強い明かりを求めると、火の粉で簡単に焼けてしまう建材と構造だったこともあるのではなかろうか。私が教室として使っている実家の床の間は、明かり取りの床窓がないため西日が射す時間帯以外は昼でも暗く、良く言えば陰影が濃い。
そこで、いけばなを飾った時に明瞭に見えるよう、邪道だと思いつつも床の間の天井に照明器具を仕込んでいる。SNSによる発信が平常的行為となってから、世の中から陰影が消えていっていることを感じる。我が流派のいけばなも、自分のいけばなも、光量過多の場にいけることが多いと思う。
過去のいけばな展を思い返してみると、自分に与えられた花席に、天井光が当たっていないとかスポットライトで照らせないのかという意見の聞こえることがあった。しょうがないでしょ、という諦めから作品を構想する必要があるだろう。
妄想段階だが、抑制を競うような夜のいけばな展をやってみたい。目をこするとぼんやり見える、見えない人には見えない闇のいけばな展である。