軒反り 260222
2026/2/22
亡母の誕生日だ。中国からの一行を伴って、ふるさと内子町の小田川河畔と大江健三郎の生家に行ったことを思い出す。彼らは中国の北京電影学院の教授や研究生たちで、清流や海の水辺が好きだった。それと、寺に強い関心を示した。
彼らが撮った写真を見ると、お遍路さんや仏像や蝋燭の火や線香の煙、寺の屋根や軒の景色が多く、また、軒下の装飾的な木組みにも多くの視線を投げかけていたようだ。リーダーの教授が、「中国本土で失われたものが、四国にはたくさんある」と言って、結局四国八十八か所のルートを一周することになるのだが、彼らの感覚を刺激したのは「軒反り」の曲線美だったのではないかと、今になって腑に落ちる。
日本の社寺の国宝級の建物は、鎌倉から室町時代にかけて建てられたものが多いそうだ。いけばなが成立した時代と一致しているのが興味深い。
古くて新しいものを表現しようとするとき、古建築に見られる意匠を引っ張ってくるというのも一興だと思い、先日いけたボケの枝は、私なりに軒反りのカーブを思い浮かべて、ゆるやかに下方に伸ばした枝先を僅かに反らせた。
距離 260221
2026/2/22
1999年5月「しまなみ海道」は開通した。そのPR誌などの制作を、勤めていたデザイン会社で受託して、クライアントや取引先、取材先の間を、プリントアウトした“ラフ”を抱えて走り回る私がいた。
ホームページを構える会社も少なく、世の中にインターネット環境が広がり始めた矢先で、様々な依頼交渉の基準はまだまだ対面だった。だから、すべて相手先へ出向かなくてはならない。また、その「ひととなり」を知るにも、会うしかなかった時代である。
今は、簡単に人と人とが繋がり合える。(私の基準に従えば)知り合うための現代のハードルは低過ぎて、「ホンマ、ええんでしょうね?」と、再確認してしまうくらい軽々しい。当時は、海山越えてナンボという感覚は根強く、私が東京の企業や個人に何かをお願いに行くと、「四国からですか!? 遠いところを、どうもどうも」と、たいていの便宜は図ってくれたし、話が不成立でも、何かお土産をくれたものだ。
いけばなの画像には、スマホで大量に接することはできる。しかし、距離と時間を乗り越えて現物に出会う、労力丸ごとの熱量には敵わない。
花器 260220
2026/2/20
全国各地から様々な陶磁器が集まったイベントは、私にとって嬉しくもあり苦しみでもある。あれもいいしこれもいいという場合、あれもこれも買えば済むかもしれないが、あっちにもこっちにも欲しいものはキリがない。
販売ブースに作家本人が座っていることが多いのも、楽しい半面、厄介である。欲しいと思った花器について、私はできるだけ制作の背景や手法などを聞くことにしているので、その結果、目の前の商品に対して思い入れは増すばかりで、購入の優先順位を決めることができなくなるのだった。また、繰り返し出展している作家とは顏馴じみにもなる。そういう人は私にとって単に販売者ではなく、工芸家や芸術家で、その人の作品はもはや商品ではなく芸術品である。「マケてくれ」とも言いづらい。
絵画と額縁の関係よりも、花と花器の関係の方が対等である。いけばなには、花より花器を生かすいけ方もあるくらいだ。手持ちの花器が増えるのは楽しい。
食べ物に好き嫌いがあっても、何でも食べなさいと言われるるように、花にも花器にも好き嫌いはあるが、どれも大事にして使い切りたい。
連花 260219
2026/2/19
「全国くらしの器フェアin愛媛2026」という催しに、「器といけばな作品展」が付随していた。出展窯元等の花器16点に、複数流派が手分けして花をいけるもので、草月流には同一窯元の2点が割り振られた。
いい機会なので、2人で「連花」をすることにした。これは和歌の連歌や俳句の連句にヒントを得た制作手法なので、本来はもっと多い人数で座を囲み、前者の作を受けて次の人がつくるリレー方式の遊びだ。作者は自作をつくったあとは鑑賞者になり、鑑賞者は次の順番では作者になるという、そんなライブ・パフォーマンスなのである。
したがって、座に直接参加していない観客にとっても、刻々と作品がつくられていく様子を体感するのが醍醐味であり、出来上がってしまった作品群を見ても、死んでしまった魚を魚屋で眺めるくらい心は踊らない。
今日、私たちは2人しかいなかったから、二神→玉井→二神→玉井……と、4回くらい回したものの、伝言ゲームが大きく変化していくようなエキサイティングな逸脱にはならず、また、2人の性格が大人しい方だったので、まずまず落ち着く所へ落ち着いた。
信頼 260218
2026/2/19
オリンピックのフィギュアスケートでの「りくりゅうペア」の活躍が、大きな話題になった。メディアも、心理学やメンタルトレーニングの専門家たちも、彼ら2人のコミュニケーションについて称賛している。その感想や解説を聞いて、改めて彼らの演技の映像を見ると、ますます涙が止まらなかった。「自分の幸せを考えられない人が、他人の幸せを本気で考えられるはずがない」というのが私の常識にあって、それは親子の間柄であっても突き崩せない壁だった。
専門家たちやメディアの論調では、「りくりゅうペア」には強固な信頼関係があって、それこそが、かけがえのない相手のために全力を尽くす原動力なのである。いまさら気付かされた私なのだ。
人間相手でも軽々しかった私だから、私が植物に向ける気持ちの軽さも容易に想像できるだろう。花材に対する信頼ということを、私は一度も考えたことがなかったけれど、例えば建築家は、木材に対する無意識の信頼を持っているのではないのか? そして信頼は、相手への理解の上に成り立つのではないか。まずは、花材への理解を深める必要を自覚した。