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いけばな随想
diary

乱立する流派の未来 251119

2025/11/20

 高度成長期、人口が増え、高校も高校生数も増えた。塾も習い事の教室数も増えた。社会的にも、仕事が細分化され各業界でプロフェッショナルの職人技が磨かれた。
 ところが、日本は人口減少に転じた。高校の統廃合や定員減少が進み、松山商業高校も1学年11クラスが9に縮小。生徒減少に伴い教員数も減少したからか、部活動も統廃合され、華道部・茶道部・琴部は日本文化部になった。
 人口が増えると、様々なジャンルで多様化、分散化、専門化が進み、人口が減ると縮小化、統合化、総合化が進むというのが当たり前。しかし、例外はある。松山商業高校は4つも科があって、商業科はたった2クラスだ。また、いけばな界でも、流派の数はあまり減ることなく続いているかわりに、1流派1教室の人数は減っている。
 それぞれの流派の理想が異なり、その独自性をアピールし続けなければならない宿命はあるだろう。しかし、いけばな文化を継承するためには大きく協同して入門者を増やすしかない。共倒れになるかもしれない危ない橋をバラバラと渡るのは、多党乱立の政界も含めて日本のお家芸だけど。

盗人の庭 251118

2025/11/18

 庭のアメリカハゼを剪定しながら、「(他人の山に)勝手に入り込んで切るわけにはいかない」と昨日自分が書いたことを思い出した。小さい罪を告白することで大きい罪を隠すという意図はないが、いつか、どこかの山道で、そういえば小さく芽生えていた幼木を引き抜いて持って帰ったのがコレである。何の木か判らないまま、数枚の小さい若葉が可愛くてつい手が出てしまったのが手に余るほどこんなに大きく育つとは、証拠隠滅もままならない。
 うちの庭は無計画に密集度が高い。食べた桃の種、知人からもらった紫陽花の挿し木、隣家から伸びてきたヤマゴボウ等々が、肥料もやらないのに良く育つ。そして数年で大きくなり、剪定するにも厄介な大きさになっているのだ。
 他人の庭木にはよく目が行くが、あまり参考にしないようにしている。おそらく庭師が入っているのだろうと思われる庭は、見事に美しく完成している。だから、そんな庭の庭木は樹形が乱れてしまうから切る余地がない。
 いけばなのために切ることができる我が庭は、乱れているからこそいつでも切れるというのが、その良さではある。

遠い山 251117

2025/11/17

 熊と人との遭遇が絶えない。熊への恐れから、人々の暮らしが“山”からどんどん遠くなる。
「高校生総合文化祭」の片付けで、上浮穴高校の先生と話をした。花材をどのように調達したのか尋ねると、高価だから自分の庭から切ったものも多いと言う。「花材の値段を花屋で見ると、高くてびっくりします」という言葉を、それこそ花木の宝の山だと思っていた中山間地の人から聞くとは、こちらがびっくりしてしまった。
 山には枝ものがたくさん自生していても、他人が勝手に入り込んで切るわけにはいかない。では、自分の山へ入って行って、花材としての枝ものを切る人がいるのかと聞けば、商売として成り立たないと言う。理由は2つ。“いい枝”は、車を降りて藪の上の方まで登らなければならない。一方、“いい枝”を苗から育てるのは手間と時間がかかり過ぎる。こうして、人々のささやかな商売も“山”で営まれなくなる。
 魚の天然物や養殖物はまだ買えるけれど、私たちのいけばなの材料は金があってもどうにもならないところへ来つつあるのだ。“山”と仲良くする方法を探さなくてはならない。

感じる準備 251116

2025/11/16

 一昨日は「高校生総合文化祭」で、空間の大きないけばなを制作するよう生徒達に働きかけた。他校の作品と並ぶ中、私の勝手な思いでいちばん大きい作品を3つ並べ、会場全体のアクセントにしつつ目立たせたかった。大きい枝を大きいまま傾けていけると、重力によって倒れやすくなる。そこで反対側の重さになるような枝を挿し、さらに重しの剣山を使って、倒れないギリギリのバランスを取ってもらった。
 ギリギリを攻めるのは、体操競技やフィギュアスケートで分かるように、ダイナミックな勢いを感じさせる。そして、このギリギリの魅力を感じるためには経験が必要である。
 いけ終わった時点で、触ったり動かしたりして倒れないことを確認したものの、一晩過ぎて不安になり、私は昨日、現場に確認に行ったら大丈夫だった。経験のない生徒たちが、そういう心配をしないのは無理もない。
 だから今日、撤花の際に自分たちの作品を傾けさせて、どれくらいギリギリだったのかということや、かといって展示中に倒れてしまわないようにしなければならないことを、無邪気で罪のない華道部員達に伝えた。

アートの軽さ 251115

2025/11/15

 岡本太郎の「芸術は爆発だ!」が、新語流行語大賞を受賞したのが1986年。私の記憶では、その頃から芸術家と呼んだり名乗ったりするのを上回って、アーティストと自称する人がめっきり増えたのではないか。私の偏見では、芸術家と言えばたいてい生活に困っていたものだが、アーティストは違う。金は持っているし、おしゃれだ。
 ここ数年、愛媛県も道後(松山市)も、まちづくりにアートを導入する事例が増えた。そして、香川と岡山で展開される腰の据わった「瀬戸内国際芸術祭」の謳い文句も、「現代アートの祭典」である。あれ? 催事名がせっかく芸術祭なのに、展示作品はアートなの?
 理由はおそらく、「芸術」では作家にも観客にもハードルが高く、「アート」ならば参入障壁が低いのだ。ああ、そうなのかそうなのか。「華道」では家庭にも作家にもハードルが高く、「いけばな」なら参入障壁が低いのだ。
 私の文章に日本語化した英語の表現が多いのは、漢字の日本語は胡麻化しようがないからだ。異なる文化圏の言葉を使うと、どうにでも言い逃れられるユルさがある。何か、クールだしさ。

講師の事