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いけばな随想
diary

自然と不自然 260205

2026/2/5

 人の手を加えていない生来の環境や事物を呼ぶときの「自然」と、人の手を加えながらも環境や事物の持ち味を極力生かした「自然な感じ」とがあって、その先に、人間に居心地の良い状態にかなり手を加えた「人工」がある。そしてまた一方に、野にあるようにいけた屋内の花という「不自然」もある。
 人工的なものというのは、人の手というよりも機械の手を加えたものが多い。しかし、日本家屋の壁材によく使われていた「焼杉」は、自然な木目を生かし、不自然でない焼きを入れて、庭木などとも馴染むような建材なので、あまり人工的な印象はしない。安藤忠雄に代表されるコンクリート打ちっ放しの建物も、いけばなが似合わないかというとそうではなく、いけばなをよく引き立ててくれる。でもそれは、いけばなが既に人工的だからなのかもしれない。
 野にないようにいけた花は、もう自然の花ではない。焼杉と同じ領域に棲む植物なのかもしれない。人の手が加わる以上、生来の自然を求めてもだめだ。
 この世の中に、どんないけばなにも適した空間などない。どんないけばなにも適さない空間もないが。

節分 260204

2026/2/5

 2月3日は節分ということに、今日気付いた。子どもとの関りが薄れてしまった証拠である。「鬼は外、福は内」の掛け声と共に豆を撒くのは楽しかったかどうか、鬼のお面を被った大人が逃げる役を担っていたのだったかどうか、自分が子どもの頃の記憶もおぼろげだ。
 言いがかりのようなことを言うと、桃太郎の話にしても鬼は悪であり、水戸黄門やウルトラマンが闘う相手にしても、権力を振りかざす地位にある者や宇宙人は危険極まりなく、勧善懲悪こそが正しい道だというような気配が世の中に蔓延していた。
 そして、大人になったからには真面目に働いて、働いて、家族や社会に尽くすのが正義である。家も乗物も家電もインフラも、機能的で経済的なものこそが正義である。そう仕向けられてきたし、自分もそれに加担してきた。
 しかし、本当に鬼は悪者か? 鬼を駆逐しようとした小市民的日本人こそ、「無知は罪」と断罪されるべき張本人ではないか? 暇人になると、面倒臭いことをゆっくり考える時間があるし、いけばなを落ち着いて続けられる余裕もあるというものだ。物事を単純化してはいけない。

いけばなの見方 260203

2026/2/3

 幹線道路を車で速く走ると、街路樹や電柱が飛び去る景色が見える。気になる人が歩道を歩いていても、減速しないで顔を覗き込むのはよくない。追突事故を起こすから。夜の繁華街を肩をすぼめてヨタヨタ歩くと、店内の酔狂な客の顏まで見える。生きるスピードによって、人生で見える光景も違うはずなので、生き急がないよう、また歩みを止めないようにしたい。
 人にはそれぞれに気持ちのいい歩き速度があると思う。長年の友だちは、そのへんのスピード感覚が似ていて同調しやすい。抜群に速い奴に合わせようとすれば、こちらはヘトヘトになり、何も見ていないまま時間だけが過ぎていたということにもなる。
 ヒトがモノを見るとき、動きながら動くモノを見る、動きながら動かないモノを見る、動かずに動くモノを見る、動かずに動かないモノを見る、この4パターンがある。ややこしいことに、ヒトとモノとが同じ方向に同じ速度で動いている場合には、互いに静止していることになるのだが、などと考えていると話は前に進まない。
 いけばなを見る態度としては、どういう見方がふさわしいのでしょう?

門構え 260202

2026/2/2

 遺した父の家でいけばな教室を開くことにしたとき、駐車場を確保するために祖父の家を取り壊し、井戸を埋めて門を壊した。それらの中で、壊さなければよかったと後悔するのは門だ。教室のレトロとも言えない安普請の玄関の壁に、いけばな教室の木看板を掛ける。道路から眺めたそのガランとした景色が、どうしても安っぽいのである。看板の重厚さだけが、ひとり浮いている。
 昔は、門扉が1つの結界を結び、松の枝がかかる門を入ると、祖父の家の低い軒と庇が陰をつくって、来客を南天と手水鉢が迎えていた。もしそこに木看板が掛かっていたら、文句なしに伝統的いけばな教室であっただろう。その一連の歩の運びにおいて、始まりの門構えがないのでは、何も始まらない。これは、建物だけのことではなく、人が行動するときの気構えにも通じる。
 私自身には、いけばなを始めた意識はあっても、伝統的いけばなを始めた意識はない。あくまでも私の人生の伴侶として、現代いけばなをやっている。しかしいま、構えがないままに始めてしまったことを振り返って、何かを早く構えなくてはと焦っている。

陰影礼賛 260201

2026/2/1

 今日は護国神社での献花祭の日。境内の朝の空気は、冷たく冴え冴えとしていていた。そして、すべては太鼓の音で始まる。太鼓が鳴り止み無言の空間が演出されると、無音かと思われたその本殿には、遠くから車のエンジン音や鳥や人の声がかすかに聞こえ始める。もともとそこにあった音が、意識によって聞こえなかったり聞こえたりする。
 本殿の奥に目を凝らす。陰影の多い建築なので、至る所に陰があり、影が映っている。奉献された神饌とそれらを載せた三方なども、それぞれに陰を纏い影を映す。陰や影には輪郭をぼやかす作用がある。煙や霧にも同じように実体をぼやかす作用があるが、光が弱くなり闇が強くなる陰影作用の方が、より神秘的である。
 したがって、献納された花も、本殿の奥の方に置かれることで、距離的に遠くなると共に、陰に溶け込もうとしていることによって明瞭さを失い、神秘化される。明瞭さのないことが、むしろその価値を保っているのだ。そこでは、黄菊の黄色も絵具的に明瞭な黄色ではなく、奥の暗さに溶け込んで尚も黄色を感じさせるような、気配の黄色となっている。

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