ゴミのいけばな 250309
2025/3/9
流木や枯枝がいけばなに使われているのを見て、ゴミみたいだと思ったことがあったらそれは幸せなことではない。家庭ゴミから核のゴミまでゴミ呼ばわりされるものはたくさんあって、ゴミに共通しているのは1つ1つが固有の名称で呼ばれないことだ。
ゴミに似ている存在として雑草がある。これも個別の名前で呼んでもらえない。ゴミとゴミでないもの、雑草と雑草でないものの境界はあいまいで、誰もはっきりとは線引きできない。
絵画展に行くと、作品の横に作品名と作者が掲示されている。制作年や画法とか画材を書いていることはあっても、どこのメーカーの何色の絵具を使っているかは書いていない。観客は絵具を見に行っているわけではないからだ。
勇気がなくてやったことはないけれど、雑草のいけばなやゴミのいけばなを展示してみたい。これは、いけばなを見てくれる人への踏絵のような挑戦で、使っている花木の名前を見て得心がいく人は、花そのものを見に来ている可能性が高い。「花材:ゴミと雑草」で見入ってくれる人こそが、花よりもいけばな全体を作品として見てくれていると思う。
異質素材のいけばな 250308
2025/3/8
草月テキスト3-11は「生の植物と異質素材」だ。枯れものや着色花材など、生の植物に由来するものは対象外。ストローや紙コップや自転車のタイヤや蚊取線香など、何を使っても構わない。というよりも、生の植物ではない物を必ず使えという指示なのである。
昨日のミニピアノ演奏会は、「楽器と準楽器と異質物」でソロ演奏された素晴らしいものだった。楽器だけで演奏する方が音楽的には質の高いものになるという思い込みがあったから、楽器でない玩具を使うことで演奏の質が落ちる心配が私にはあった。演奏者も妖精のようなコスプレだし、シンバルを叩く猿の玩具やピロピロ音が出る紙笛や乳幼児向けのおもちゃが、ミニピアノの周辺、演奏者の手の届く範囲に30を越える数で並べられ、その空間自体がドールハウスのように設えてあった。おもちゃのチャチャチャの世界である。大丈夫か?
ところが演奏は凄かった。サーカス村の雰囲気と不思議の国のアリスの世界が混じったような、視覚効果抜群の演奏会だった。いけばなでの異質素材の使用も普及はしたが、それで最高作をつくるのは難しい。
名前 250307
2025/3/7
きのう散髪に行った。高齢夫婦と義理の娘さんの3人で、床屋であり美容室でもある1軒を営んでいる。床屋の親爺さんにバリカンをあててもらっていると、女性2人からガラス花器に挿された葉っぱを顔の前に持って来られて、「この葉っぱから出ている変なのは花ですか? これは何ていう草かご存じですか?」
見たことのある植物だったが、名前を思い出せない。バリカンが終わって「ルスカス」の名が浮かんだ。娘さんに検索してもらうと当たっていた。名前がわかると旧知の仲だったかのように身近に感じられた。
きょう小さな音楽会に行った。ギャラリー・リブアートの『思い出す場所』というタイトルの2人展に寄せた、1回限りの特別な演奏会だ。40鍵盤のミニピアノと猿のシンバルや様々な玩具の楽器たちを1人で同時演奏する。とても素晴らしかった。聞きながら、行ったことがないイギリスの田舎町を思い浮かべた。演奏者の名前は演奏直前に知った。keipyanという不思議な女性だった。
馴染みのない綴りと音の名前なので、遠い世界の暗号のようにも感じられた。まだ見ぬ町の懐かしさがこみ上げた。
切るアート 250306
2025/3/6
苦し紛れというか、軽薄な思い付きというか、写真といけばなは「切るアート」だということに共通点がある。
シャッターは切るものであって、押さえるものでも押すものでもない。この機械式カメラの感覚は、デジタルカメラの出現でかなり減退させられて、スマホの出現で失われた。フィルムカメラは、機械的なシャッターの開閉時間の調節機構と、絞りの羽の開閉具合による光量の調節機構とで光を切り取る。
これはもう一瞬の決断と動作で行われるところに価値がある。つまり、デジカメだと連続的に撮影しておいて後でのんびりと取捨選択できるが、フィルムの場合は捨てる画像のフィルムはすべてコストとして消費されるため、とりあえず撮っておこうという選択肢はないのだった。
いけばなも同じである。「とりあえずこの枝を切っておこう」という選択肢は、ない。切ってしまえば、ひとまず確定である。ただ、写真と違うとすれば、いけばなは切ったら切ったなりに足すこともできることだろう。しかし、経験上いけばなには順序がある。足してから切る方が、引いたり足したりするよりも切れがいい。
写真と記憶 250305
2025/3/6
村上亘さんと直接会って、彼のトークはよく分かったし人としての村上亘に共感できたから、いずれ写真家村上亘とその作品にも共感できるだろうと思っている。
その展覧会で私の心を引き付けたのは、エドワード・ウェストンの『草と海、ビッグ・サー』というモノクロ写真だった。海を臨む丘に丈の高い細長い茎と葉の草が群生している。その地面から目線を上げていくとまばらになった草の間から海が見え、もう少し目線を上げると草の穂先の向こうは広がる空だ。もう一度目線を少し下げると視野の中央に水平線がくる。ぼやけているので、きっと春か夏だ。
ビッグ・サーが何なのかを調べると、カリフォルニアのセントラルコーストの人口が希薄な土地だという。1,500mに達するサンタルシア山脈が海岸線からわずか5キロの距離で連なっていて、海岸線は切り立つ崖である。
その風景は足摺岬の風景を思い出させた。私は南の海が好きだ。私の濃密な海の体験が、草と海の写真に私の心を引き付けた。そんな私だから、できることなら海の象徴としての流木でいけばなをシリーズ化したいと思っている。