ユーモア 260213
2026/2/13
いけばなのカリキュラムに、「野菜・くだものをいける」がある。ユーモアのセンスが低い私が、最も苦手とする。なぜといって、野菜をいけてユーモラスにならないないわけがないのに、私の本能がそれを拒否するからだ。くだもの全部を握り潰して果肉と果汁が飛び散った現場をつくりたいくらいだ。
大根足、ドングリまなこ、かぼちゃ頭、桃尻、リンゴのほっぺ、おたんこ茄子等々、そんなに多くは思い浮かばないが、野菜・くだものは擬人化しやすく、また逆に擬物化もしやすいため、見た人がその1個1個を凝視して、形状や色彩に囚われ過ぎる可能性を思う。
野菜やくだもの、動物や花などのモチーフをパズルのように組み合わせて気味の悪い肖像画(寄せ絵)を描いたのが、16世紀のイタリア人画家、ジュゼッペ・アルチンボルドだ。その奇想の絵描きは、ハプスブルグ家には受け入れられたが、おそらく現代の松山空港や松山駅などのパブリック空間には受け入れられない。
蜜柑畑か椿の写生的な絵、または写真を展示して、横に「これはアートです」とユーモアを交えた説明書きが付くくらいだろう。
インスタレーション 260212
2026/2/12
いけばな展が終わったら、私は使った花材のほとんどを廃棄する。石やブロンズの彫刻ならば、押入れに仕舞い込んでおくかもしれない。いかんせん、生花の寿命は短い。
昔、松山市内の大街道商店街で、川俣正という芸術家が、インスタレーションを披露した。アーケード内に木材を組んで、橋のようなトンネルのようなジャングルジムのような“建築物”を組み上げたのだ。これは、作品をつくるというより、出現させる行為だと思った。ウルトラマンでもゴジラでも、出現したら退場する。川俣正の作品も、せっかくつくり上げたのに、壊し始めるということをしないとインスタレーションの道に反する。そして、跡形もなく消し去ってインスタレーションは終わっても、私の記憶には残り続けたのだった。
一発芸ではないけれど、いけばなも、硬い彫刻として残せないなら、見た人の記憶に残せたら嬉しい。
いけばなは「よくわからない」。いけばなを「どう見たらいいの?」。声に出して聞かれたことはないが、そういう人に、考えるよりも先に驚かせたり、うっとりさせることをしたいと常々思ってはいる。
アート 260211
2026/2/11
今日が誕生日の亡父は、公務員だった。私は宇宙飛行士になりたいと書いた小学生時代、サッカー選手になりたいと思った中学生時代、アーチストになりたいと思った高校時代を経て、父子喧嘩も挟みながらそのどれにもならず、今いけばなをしている。
いけばなは、いけばなであってアートではないという考えは、私は持っていない。草月流は、いけばなを芸術たらしめる気概を持って始まったからだ。しかし、いけばなはいけばなであり、家元だけはアーチストである可能性があるとしても、その門下は家元制度の下にいる限り本当の意味でのアーチストにはなれないという意見もある。
これと同じくらい曖昧なものに、パブリックアートがある。松山空港や道後温泉界隈のモニュメントやアート作品だ。砥部町の「陶街道」もそうだ。地域をシンボライズしたり、芸術を身近に感じさせたり、“いいね”を数多く集めたりすることが、アートの目的だろうか。アートはもっと孤高の独自性を出すものではないのか。
この議論はずっと続いていくと思ったので、私はもう、はっきりした境界線を引くことは止めている。
作品のメッセージ 260210
2026/2/10
生徒さんに聞く。そのいけばなをいけたビジョンや思いは? このような質問に慣れていない人は、花に意味を盛り込む必要があったんですか? という表情で困惑している。慣れた人は、饒舌にしゃべってくれたり、サービス精神で作品にタイトルを付けてくれたりする。
そうなのだ。いけばなには、タイトルがあったりなかったりする。初代家元の作品集の頁をめくると、1作1作にタイトルの付いていることが多い。4代目家元は付けていないことが多く、ともかく私は、基本的に付けない。
さて、今度開催される華展で、私が「男と女」というタイトルを自作に付けるとしよう。まず聞かれるのは、どこが男と女なんですか? しかし、いけばなは、具象画の親戚というよりも抽象画の友人であるから、作者とて、ここのこの部分が男でね、とか説明できる代物ではない。あくまでもイメージの世界なのである。
それならば、見た人が見た人なりのイメージを羽ばたかせるべきで、タイトルなんか付けて意味を限定させるなよ! と批判されそうだ。まあ、どっちがいいかは、作者も見る人も、一概に決め付けないことだ。
劇場型 260209
2026/2/10
俳句甲子園、書道パフォーマンス、花いけバトル……次々に現れてきたこれら文芸イベントは、劇場型の顔を持つ。元来は1人で取り組む原形のジャンルに、団体競技の面白さを持ち込んできた。
俳句には、古くから連句という共同制作の下地があるので、ことさら特別な感じはしなかったし、はじめから重々しさより抜け感を感じる俳句なので、逆にディベートで闘う激しさに対して、芸術性を再認識したくらいだ。
しかし、書道パフォーマンスが現れた時、私はびっくりした。草月には連花という“座”が企図されることがあり、私も参加したことはあった。にも関わらず、花いけバトルが現れた時、これにも私はびっくりした。驚いた原因は、私がそれらの道に抱いていた先入観に「禅」の要素があって、禅に求める道と彼らのパフォーマンスとは真反対の方向性だと感じたからである。
昨日が投票日だった衆議院議員選挙も、劇場型だったなあとつくづく思う。喩えが不適切だと言う人もあろうけれど、政治と国民の関係を大雑把に見たとき、それはナチスドイツの政治宣伝の有りさまと、相似的ではなかったか。