変化と回転 251016
2025/10/17
生きている証拠は、変化すること。保存性が低く、いけ終わった途端に枯れ始めるいけばなは、生きた芸術だ。人間も老いるとしても、変化しているというだけで生きて表現し続ける存在である。この私のモットーに、1つ加えたい見方が頭に降りてきた。それは、直線的に変化するだけでなく、自転車の車輪のように回転しながら変化することだ。
普段ママチャリに乗っている時には感じないかもしれないが、競輪選手の足を見ると足がペダルに固定されていて、踏み込む力と引き上げる力が両方働いている。ママチャリでは、踏み込む力は発揮できても、特にサンダルのような履物の場合はペダルを引き上げることができない。
トラック運送も同様で、発地から着地まで荷物を運ぶと、片道分の運賃がもらえるに留まるが、帰りも荷物を積めば往復分の報酬をもらえる。人生、いいことも悪いこともあるけれど、いい時だけ喜んで終わりにするのではなく、悪い時もせめて良い教訓を得るように心掛ければ、回転運動の効率を得ることになる。
いけばなは、毎日水を換えよう。回転運動のように新陳代謝がうまく回る。
いけばなの才能 251015
2025/10/16
かつての私には、いけばなの才能がなかった。それは、成功と努力とをハカリにかけて、成功が努力を上回らないと感じたとき、稽古に対する情熱が低下していたことでわかる。いけばなをやっていることそのものを、仕事を言い訳に心から楽しんではいなかったという証拠なのである。
いまは気構えが変わり、一個の自分の作品の出来・不出来を越えて、いけばな全体の隆盛を望むようになっている。自分の小さな成功や失敗という単発的なものではなく、大きな範囲の長期的な進展を指向しているつもり。
才能のない者は成功しない、これは本当だと思う。かといって、才能がある者すべてが成功するとも限らない。そしてまた、成功というのは、それを行うことによって収入が増えることではなく、楽しく取り組んでいられるかどうかだと言うこともできる。とにもかくにも楽しんでそれができているというのは、大いなる才能だと言えないだろうか。
私はその点、生徒さんたちに恵まれている。仕事が大変でも、彼氏を放っておいても教室に来てくれる、才能の集団である。いずれ皆さん、大化けしてくれるのだ。
影向の松 251014
2025/10/14
靖国神社参拝の話になると神性よりも政治性がクローズアップされ、戦没者を慰霊するという性格が共通するため、護国神社に対しても国によって創建されたという誤解も加わって、“さわらぬ神”扱いを受けることになる。日常生活においても、神性というのは常に私たちの身の回りにありながら、常に見過ごされるようになった。
神社で献花する花を選ぶ際、その筆頭となるのは黄菊である。今でこそ通年で用意できるが、本来は秋の花なので春や夏はどうしていたのだろうか。枝ものについてはよくわからないながら、花札の“赤たん”の役の組み合わせで有名な松梅桜は、それぞれ1月、2月、3月を代表する縁起の良い木だと思う。
季節に左右されないということでは、常緑樹の榊(サカキ)であれば、神事でいつも使えることから、玉串で奉納するにも具合が良かったということだろう。松や椿も、花ではなく葉の緑を生かすには都合がよい。
神様はたいていどこか遠いところにおられて、稀に降りておいでになる。それを影向(ようごう)と言うのだそうで、能舞台の背景にも「影向の松」が描かれている。
思考も道具 251013
2025/10/13
きょう、松江・八重垣神社の草月流島根県支部展に行った。先日、愛媛県護国神社の大祭に身を置いてから神社の2連チャン。
いけばなの道具はハサミ1本である。花器は道具というより花材の側に分類すべきだ。ワイヤーや釘などは、いつも使うわけではないので除外しておく。微妙なのは剣山だが、投入では使わないし、工夫すれば剣山なしでもいけられるし、剣山の代用品を見つくろうことも可能だ。
それでは、ハサミを握れば誰でもいけばなができるかといえば、それは簡単ではない。何も思いつかなければいけばなは始まらないし、始められたとしても、制作過程で「ああでもない、こうでもない」と試行錯誤しなければつまらない作品になる。
島根県支部展で私が見たのは、その試行錯誤の痕跡。次の例は半分想像で、「作品の倒壊を避けるため、境内の小川に架かる橋の欄干に作品を固定したいが、よろしいですか」という問いかけに、勝手を知らない神社は「うーん」と唸るばかり。島根県支部は仕方なくテープで養生したが、結果は悪目立ちしていた。こんな時、思考という隠れた道具で一気に打開だ。
神社と花 251012
2025/10/13
今月10日は護国神社の慰霊大祭で、終戦80年の特別な日でもあった。大祭後の直会の席で、神職が太鼓の話をされた。神社の太鼓の音には、邪気を払って場の空気を浄めること、神様をお招きすること、神事の開始を告げることという意味があって、その重要さは計り知れない。
そんな神社に献花をするのは、よくよく考えると大変なことだ。そもそも芸術というのは一種の革命的蜂起を使命としている。既存政権の打倒ならぬ、既存の価値観に対する絶え間ない疑問の投げかけである。それは草月流のスタイルでもあるから、下手すれば神様に対するバチ当たりになりかねない。
そこで思い返しておきたいのが、いけばなを「場にいける」という絶対条件である。場の提供者や利用者を尊重する姿勢で臨むため、革命的ではあっても革命をそこで引き起こすわけにはいかない。だから、草月だと声高に言いつつも、保守的な振る舞いをすることもあるだろう。
これだけ自由や個性が謳歌される時代になっても、手水鉢を可愛く飾るにしても、どこまで「場の伝統」と折り合いをつけるかというのは大きい問題である。