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いけばな随想
diary

時を経て 250924

2025/9/24

 効率化を求める気持ちは、わかる。寿命には限りがあるのだから、少しでも多くを見たり聞いたりしたいし、やってもみたい。しかし急ぐと見えないものがある。一瞬見えた気がして見失うものも多い。
 私の庭先には流木がいくつも転がっていて、季節に数回あっちへ持って行きこっちへ動かすというようなことをして、朽ちていき欠けてゆくことを繰り返しながら姿を保っている。昨年は、いちばん大きな流木に蟻が巣作りしたのを見つけ、日中の焼けたアスファルトの熱と夜の水攻めを繰り返して、どこかへ移住してもらった。ゆっくり過ごしていれば、それはそれでいろいろなものが見える。
 存在感が大きいため使い辛くはあるが、そんな流木のような年月を経た“枯れもの”を、新鮮な切り花と共に使うことがある。しかし花材はともかく、出来上がったいけばな作品は、経年変化を楽しむことができない儚さだ。
 人を写した写真は何十年経っても生々しさが蘇るのに、いけばなの写真はそれほど心ときめかない。だから最近は、作品だけではなく、制作者のにこやかな顏も入れたスナップ写真を撮るようにした。

見ないこと 250923

2025/9/23

 たとえば、初恋が成就したと勘違いした人生最良の日を、人は毎日繰り返して生きたいだろうか。私にとっては、細部まで同じ1日がもう1日繰り返されることは、どんな佳き日が再現されるとしても地獄の1丁目である。
 目覚めてから次の眠りに至るときまで、その1日に目にした全てのものを覚えておくことはできない。はじめからほとんどのものを忘れるのが人間ならば、覚えるものも見るものも最小限に絞っておくのはどうだろう。
 または、フィルムカメラにフィルムを装着せず常にシャッターを開放しておくように、目に映ったどんな光景も網膜に焼き付けないでおけば、思い出す必要に迫られないというものだ。
 現実的な行動として、私はいけばな展に行ったとき、直感的に「パス」と感じた作品は知覚しないでただボーッと見る。目に焼き付く暇がないくらい早く、そして脳との連絡を意識的に絶って。そのかわり、「コレ」と感じた作品の前では、左からも右からも、近くからも遠くからも、下からも裏からも覗き込む。これは、いくつかを見ないことによって別の大きな時間が得られたことを意味する。

万花彩 250922

2025/9/22

 きのう百貨店で、陶芸家・葉山有樹氏の“万花彩”に出会った。細長い皿とも細長い水盤ともいえる陶磁器で、遠目には青く、近付けば五彩による華やかな細密画とわかる。日頃接する絵付けを超えて、魔術に近い細かい花で全体が埋め尽くされており、余白が一切ない。
 私は魅入られながら困ってしまった。花をいけることで、何もない空間(余白)をどれだけ大きく取ることができるかということに眼目を置いてきた自分だから。
 一夜明けたきょう、1個のぐい呑みを実家の押入れで発見した。焼酎の店「夢中居」でもらった『別冊・季刊えひめ』のコピーを去る7月18日に見つけていたが、それと一緒にもらったものだ。「夢中居」のオーナー・渡部晃夫さんが、真鍋霧中の揮毫した「夢中摘花則天下文詞無所不知」から「夢中摘花」を選び取り、その4文字が砥部の龍泉窯が焼いた器の腹に浮かぶ。文字のまばらな大小と緩い線、何といっても白磁の朗らかで大きな余白が魅力だ。
 私は2日間で、最も余白がない焼物と最も余白に満ちた焼物に、連続で接してしまった。気持ちの収拾をつけなければならない。

余韻 250921

2025/9/21

 東山魁夷画伯が、自著『日本の美を求めて』の中で、土佐派の絵師・土佐光起の言葉を引用している。「異国の絵は文のごとく、本朝の絵は詩のごとし」「漢画は正なり終なり、真なり実なり」
 これを読んだ画伯は、漢画には一種の執念ともいうべき徹底性と迫真的な写実力があると再認識する。対して日本の絵が持つ「ふんいき」「うるおい」「やわらかみ」「情趣」などが、日本人の好みに適しているのではないかと思う。
 ここで私は、終活の一環で手放した中国の戯画本『西遊記(悟空の妖怪退治)』があったことを思い出した。漫画ながらも、竹ペンで描いたようなモノクロの絵の線が素晴らしく、製本をほどいてバラバラにすれば、全ページが額装に堪える出来映えだった。あの線はしなやかだけど鋼のように硬い芯があり、撥ね・留め・払いなどの部分が、中国徽宗帝(12世紀初め北宋)の文字のように強く神経質だった。
 壮年期までは、ある種の強さが感じられるものに惹かれがちだったが、ここに至って、だいたいぼんやりしたものに惹かれる。視力の衰えに応じた、おぼろげな輪郭や余韻が好ましい。

時間遡行 250920

2025/9/20

 映画『予告された殺人の記録(ガルシア・マルケス原作)』を久しぶりに観た。ここ数日ボルヘスの小説を読んでいたので、2人の南米作家に共通する迷宮的世界にどっぷり浸かった。
 時間に素直に従っていると、1日は24時間でしかない。しかし、昔のことを思い出すなどして時間を遡れば、過ぎる時間と戻る時間がパイ生地のように何重にも重なって、体験的な延べ時間はどんどん長くなる。
 夢見る人を他人が見ても、その夢を体験できないように、いけばなを見て、それをいける人の時間は体験できない。手に取った花があと何日何時間で枯れ始めるか、いける人の意識は必ず未来へ先回りする。流木を使う時は、その流木がどこから流れてきたのか出生を想像する。コスモスなどは、1つの株に蕾もあれば満開もあり、散り始めている花も付いている。花の1輪1輪が別々の時間を紡いでいるので、私はそのすべてと並走しながら、花の時間を行ったり来たりしているのだ。
 音楽鑑賞は、演奏する人と聴く人が同じ時間を共有できるが、いけばなはできない。祭と同じで、いけばなはこっち側に来てこそ面白い。

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