花の流通現場 250611
2025/6/12
花市場ではなく、産直市の話だ。出荷者の1人と言葉を交わした。片道2時間かけて山の現場へ行き、枝を切って、また2時間かけて町に戻ってくると言う。
ここからは私の計算だ。売価500円のアセビを40本分切り出したとする。全部売れると売上2万円。切り出す時間が1時間として、出荷前に長さを整えたり虫や枯枝を取り除くなどの下処理を行い、価格シールを貼ったセロファンを巻き、再び軽トラに積んで産直市に持ち込み、所定の売り場に並べるのに3時間。2万円を売り上げるのに合計8時間だ。苗木の仕入れ、山の手入れやガソリン代などの経費を引いた粗利は1日5千円くらいで、時給625円だ。
つまり、この仕事だけで生きることは難しい。切り出す本数を倍の80本分にすればいいのかもしれないが、軽トラの積載量には限界もあるし、それだけの量が毎日売れるという期待もできない。
廃業されたら困る。私が枝もの花材を入手し続けられるためには、その枝を買う人がもっと増えるか、いま買っている人がもっと金を払うか、いずれにせよ出荷者の収入が増えることが鍵になってくる。
数が力か? 250610
2025/6/11
少年期に、プロレスごっこにハマっていた時期がある。ミル・マスカラスとかタイガーマスクとか、技が派手な覆面レスラーが子どもの私を喜ばせていた。インパクトのある姿かたちと技が観客を湧かせた。堅実で派手さのないレスラーはスマートかもしれないが、熱狂の対象にはならなかった。
とすると「いけたら、花は人になる」という考えは、正しいけれど注目されない個性も肯定してしまう弱点がある。ショーマンシップを発揮し、目立つ個性を演じてこそ、受けが良い「映える」いけばなになるのではないか。衆目を集めるいけばなは、人目につかない場所でひっそり佇むいけばなよりも称賛されるのではないか。ほのかな悲哀よりも激情的な嘆き、ほほえみよりも狂喜乱舞!?
世の中を席巻している投稿動画では、むしろやり過ぎたフェイク画像の方が世俗的な名声が得られることもあるようだ。資本主義が本質的に利益偏重であるように、資本主義的芸術は、ファンの数の多さやオークション価格の高さが評価の基準になる。
数量的多さこそ価値というこの基準は、いけばな界をもじわじわと侵食している。
いけばなコミュニケーション 250609
2025/6/10
三たびコミュニケーションの話題に戻ってきた。これが一定の波長で頭に浮かんでくる。私はコミュニケーションが理解と表現から成り立つことを知っているし、知っていることと、できることとが違うステージにあることも知っている。
いけばなをいける際に必要なのは、5W1H(いつ・どこで・だれが・なにを・なんのために・どのように)とか6W3Hと呼ばれる項目をしっかり理解することだ。このことを何で真剣に考えてこなかったのだろうと、今更ながら反省する。
いけばなを見る人からすれば、いけた人の人格や営業力などには興味はない。どんなに「頑張っていけたんです」と訴えても、いけばながすべてだ。「いけたら、花は人になる」というのは、「花にその人のすべてが出てしまう」ということでもある。さらに突き詰めると、「いけた花が、すべてを語っている」ということだ。
だから、いけばなは、いけた本人に代わって見る人を呼び寄せたり遠避けたりする。成功している建築業の社長が、「事務所に花がいけてあると、成約金額がなぜか大きくなるんです」と言っていたことを思い出す。
嘘と本当 250608
2025/6/10
最近は外来の花の流通が種類も量も多く、本物と呼ぶしかないプリザーブド・フラワーの普及などもあって、生の本物なのに造花のように見える花がある一方、造花なのに本物に見える物もあって、偽物と本物の境界がどんどん曖昧になっている。
しかし、造花を偽物と言い切ってしまうのもどうかという気持ちがある。切り花だって野にあるがままではないと言われれば、自然ではなく不自然な状態であることは否めない。それを100%本物と言えるのか。日本語で議論する限り、言葉を使う人によってニュアンスが異なって、立場が交わらず離れていくばかりだ。
外来語を使うと、いけばなはフィクションである。フィクションは「嘘と本当」や「偽物と本物」を超えて、「つくり物」であり「物語」である。材料に何を使おうが、出来上がったいけばなはつくり物だ。どこかに嘘つきの性格を持っているし、確実につくり物の要素を持っている。
だから、物語でもあるいけばなの「嘘と本当」は、材料によって区分されるのではなく、いけばな作家のいける態度や思想や心情によって分かれると考える方が馴染む。
回り道 250607
2025/6/10
体力のない者が山に登るとき、最短距離で岩場を登って頂上を目指すようことはしない。なだらかな道筋を選んで危険を回避し、瞬発力を使わないよう心掛けると、結果的に回り道を選ぶことになる。
先日、会議のために東京へ行った機会に、思い切って草月流の本部講座を受けた。これまで選んできたハイキングコースではなく、アルペンルートの修行である。むかし芸北のどこかのスキー場へ行って、若さの故、無謀にもオリンピックコースを下ろうとしてエラい目に遭ったことを思い出す。当時は自分を客観視できないうえに経験則がないから、「できない」という判断ができなかったのだ。
私は教え子にも教えることが多くはない。責務を果たしていないというつもりもない。自身を振り返ってみて、時間をかけて自分で探して見つけた知識や技術は身に付くが、人から教えられて早く身に付けたものは、まるで壊れやすい鎧だ。付け焼刃も、すぐに刃こぼれする。
だから、先日のその講習でも安易に出来上がりを目指さず、研究の場と位置付けて、普段と違う選び方で花器と花材を選んで「遠回り」を心掛けた。