汀州Japanlogo 汀州Japanlogo

いけばな随想
diary

名実ともに 251009

2025/10/10

 1980年頃、私は頻繁に渋谷を徘徊し、宇田川町の輸入盤レコード店「シスコ」を皮切りに輸入盤レコード店をハシゴした。その足でセンター街のロック喫茶「ナイロン100%」に寄り、ニューウェーブ系の“レコードコンサート”を聴いて帰途に就くというルーティンだった。スティングが在籍したポリスの「ロクサーヌ」も「ナイロン100%」で聴いたオムニバス盤に入っていて、急いでレコード店に駆け戻ってアルバムを買った。
 そして1980年代にはCDが普及し、レコード販売が翳るとともに、輸入盤レコード店だとかレコードコンサートという業態やサービスの実体がなくなって、言葉も消えてしまった。そもそもレコードを回して聴かせて、それをコンサートと呼ぶのはいかがなものか? 当時そんなことは思いもしなかった。
 実体がなくなると、それを表す言葉も消える。言葉が消えてしまうと、それはもう二度と誰にも思い出せなくなり、完全に風化すると塵ほどにも残らない。「名残惜しい」というのは、誰からも忘れられて消えゆくものに対する惜別の言葉だ。いけばなには、残ってほしい。

花の不都合 251008

2025/10/9

 産直市に並ぶ花は、売る専門家ではない生産者が持って来る。売る専門家の花店には、綺麗に手入れされた“よそゆき顏”の花が並ぶ。全国の生産者から東京や大阪の花市場に行き、再びUターンしたり、Jターン、Ⅰターンした花が全国の花店で売られる。
 もちろん地元産の花が地元の花市場を経て、地元の花店に並ぶことも珍しくはないが、聞く限りではその割合がどんどん減っている。愛媛を代表するサクラヒメ(桜色のデルフィニウム)も、春先のものは愛媛産でも秋口のものは北海道産が多い。
 そういう流通が普通になると、地方の生産者は安く買い叩かれても、まとまった量が動く大きい市場に出荷する。そして地元の消費者は、遠く旅してやって来た綺麗で高価な花を買う。「このバラ高いよう!」と訴えると、ケニアやインドから取り寄せるバラはどうか? と、売る方も買う方も渋々折り合いを付けたりするのだ。
 地産地消とか、地方の時代とか、政府は何十年も飽きることなく言ってきたが、日本全体が世界の地方になりつつある現在、いけばなの分野ですら非伝統的な土俵で相撲をとるようになった。

中秋の名月 251007

2025/10/7

 夕べ19時半頃に空を見上げた。飛行機雲が流れる下を飛行機の点滅灯が小さく横切り、雲の上には丸い月が大きく輝いていた。月の右側に明るい星が1つ。調べてみると土星らしい。ちょっと調べればスマホが星図まで示してくれるから便利になった世の中だけれど、ベガかな? アルタイルかな? などと素人が知ったかぶりで推測する楽しみはなくなった。
 小学生の夏休み、厚紙の星座盤と懐中電灯と安物のオペラグラスを持って星空観察教室に何度か通った。校区外の小学校の校庭が会場で、暗い街灯を頼りに弟を連れて行ったと思うが、親が同行していたかどうか思い出せない。次の冬休みくらいまでは、その後もよく星空を見上げていて、それから先は興味を少しずつ失い、星々の名前も今ではすっかり忘れている。
 私の趣味は多い方だったから、趣味でなくなったものも多い。長続きした趣味のいけばなは遂に仕事と化していて、花を見るにも風情ではなく、おこがましい審査員の目で見ることにもなる。「いい趣味をお持ちですね」と軽く言われるくらいが、ほんとうに趣味として楽しめる時期というものか。

不都合な花 251006

2025/10/6

 トマトやレタスやイチゴや……スーパーマーケットに並ぶ果物野菜は、遠い産地から、外国からも太平洋を越えてやって来る。そうした大量流通で遠くから来る物は、総じて見た目が綺麗だ。
 最近の消費者は(私がその代表格だが)、食物の正体を見分ける能力が低いため、見かけと味が比例していると錯覚するから損をしている。大量流通で動く物は安いから、価格面でもなびいてしまう。味や栄養価よりも見かけと価格なのだ。
 一方、産直市に並ぶ果物野菜には、味はいいが見かけはイマイチというものも混じる。食物の場合は、見かけはイマイチでも味が良ければ価値は高い。問題は産直市に並ぶ花卉だ。果物野菜と同じ農作物なのに、見かけが価値のほとんどを占める。大量流通の花は都会の市場に行くので、産直市にやって来るのは流通の末端のごく一部である。手間をかけ過ぎるとコスト倒れになるし、結果的に見かけが整っていないことも多い。
 草月の初代家元の作品は、枯れた草や虫食い葉も積極的に取り入れて事も無げにいけている。どんな花でも素敵に料理して、全部美味しいいけばなになっている。

花の地球 251005

2025/10/5

 物事の意味について、意味のある考え方をしてみようと試みた。
 自分にとって、初めは目に映る物事にも世界にも意味はなくて、経験に応じて自分が自分と関係付けたい対象に意味が生まれる。赤ちゃんの成長過程を眺めるとわかる。たとえば私の場合、25年間いけばなのことを考え続け、それを軸に頭と目を働かせてきたことで、青少年期には全く意識しなかった花木に意味が生じ、いけばなの世界観が広がってきた。しかし、一旦は意味を持った対象も、時間経過とともに捨てたり捨てられたりして、関係性の希薄化と併行して意味も失ってはいく。
 花に関係がある知識や体験を種や苗として、頭の中の地球儀にも植え付けていたら、あまり世話をしなくてもそれらは生長し、密林化して暑苦しいくらいの状況になってきた。意味が増殖して心身にへばりつき、それを重いと感じ始めたら、夢の地球儀世界の剪定時期である。
 現実世界の庭の植生は、周期的に剪定してやらないと虫が付いたり病気になったりする。私は今や“花の地球”に棲み、祖父と庭師が木を切らずに縁側で将棋を指していた様子を懐かしがる。

講師の事