切るアート 250306
2025/3/6
苦し紛れというか、軽薄な思い付きというか、写真といけばなは「切るアート」だということに共通点がある。
シャッターは切るものであって、押さえるものでも押すものでもない。この機械式カメラの感覚は、デジタルカメラの出現でかなり減退させられて、スマホの出現で失われた。フィルムカメラは、機械的なシャッターの開閉時間の調節機構と、絞りの羽の開閉具合による光量の調節機構とで光を切り取る。
これはもう一瞬の決断と動作で行われるところに価値がある。つまり、デジカメだと連続的に撮影しておいて後でのんびりと取捨選択できるが、フィルムの場合は捨てる画像のフィルムはすべてコストとして消費されるため、とりあえず撮っておこうという選択肢はないのだった。
いけばなも同じである。「とりあえずこの枝を切っておこう」という選択肢は、ない。切ってしまえば、ひとまず確定である。ただ、写真と違うとすれば、いけばなは切ったら切ったなりに足すこともできることだろう。しかし、経験上いけばなには順序がある。足してから切る方が、引いたり足したりするよりも切れがいい。
写真と記憶 250305
2025/3/6
村上亘さんと直接会って、彼のトークはよく分かったし人としての村上亘に共感できたから、いずれ写真家村上亘とその作品にも共感できるだろうと思っている。
その展覧会で私の心を引き付けたのは、エドワード・ウェストンの『草と海、ビッグ・サー』というモノクロ写真だった。海を臨む丘に丈の高い細長い茎と葉の草が群生している。その地面から目線を上げていくとまばらになった草の間から海が見え、もう少し目線を上げると草の穂先の向こうは広がる空だ。もう一度目線を少し下げると視野の中央に水平線がくる。ぼやけているので、きっと春か夏だ。
ビッグ・サーが何なのかを調べると、カリフォルニアのセントラルコーストの人口が希薄な土地だという。1,500mに達するサンタルシア山脈が海岸線からわずか5キロの距離で連なっていて、海岸線は切り立つ崖である。
その風景は足摺岬の風景を思い出させた。私は南の海が好きだ。私の濃密な海の体験が、草と海の写真に私の心を引き付けた。そんな私だから、できることなら海の象徴としての流木でいけばなをシリーズ化したいと思っている。
技術力 250304
2025/3/4
先日、砥部焼を自分でつくるワークショップを草月会愛媛県支部で開催したとき、同じデザインの皿を何十枚も作っている窯元の様子を見て大変な仕事だと感じた。レストランのシェフも大変で、ブーケをつくる花屋さんも大変で、とにかく私にとって同じ商品を何十、何百とつくることは全て大変に思えるのだ。
しかし、少量多品種よりも1つの商品の大量生産が儲かる秘訣であることに変わりはなく、商売である以上は儲けることがまっとうな取組なのである。その点いけばなは儲けにくい。
商売をしている人には聞き流してもらいたいが、大量に作るためには創造性を抑制して決まったパターンを機械的に繰り返す必要がある。下手に反省したり改善を繰り返したりすると、たちまち時間も奪われて収益性が低くなる。作業をしている間だけは、クリエーターとしての自分を殺してオペレーターに徹することが大事だ。
しかし一方で、オペレーターとしての安定した高度な技術が身に付いているからこそ、その技能に見合った創造性が発揮できるということも、砥部焼の成形にジタバタ取り組みながら思ったものだ。
センスがいいって? 250303
2025/3/3
本人のトークショーにも行っていたので、村上亘さんの作品も展示してある『写真のこれまで/これから』展を愛媛県美術館に観に行った。教養をひけらかして感想を滔々と語りたいところだが、底が知れるのでやめておこう。
写真展は、梅錦という酒造会社の社長だった山川さんのコレクション展で、金持ちの道楽という低俗なものではなく、蒐集センスがとてもいいのである。経営者が成功を収めると人それぞれ何かとお金を使うのは当然で、それを私の物差しでは生活臭の濃い薄いで測定する。で、私は私なりに意固地なので、一般的生活(今日明日の短期的に必要性があるもの。衣食住を満たすために必要なもの)から遠ければ遠いほど「センスええやん!」ということにしている。
しかし、センスええ人の買うセンスええ品は、そのセンスええ人にとっては日々のセンスええ暮らしには欠かせないものなのであった。
三浦工業のミウラート・ヴィレッジ、株式会社セキのセキ美術館など枚挙に暇がないけれど、こういう経営者による文化的資産への働きかけ方には、それぞれの異なるセンスが凝縮されている。
教養 250302
2025/3/3
武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へゆけば必ずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。国木田独歩の『武蔵野』の一文だ。
話をして楽しい人は、こんな気持ちで日々あちこちをあれこれふらついている人だ。どんな話題でも関連性のある経験があるか、本を読んだり知人から聞いたことがある。仮に全く経験がなくても、広い経験を生かして想像力で補完できる。だから、教養がある人には想定外という事態が起きない。また、どんな話題でも相手以上には深入りしない遠慮と、その話題について豊富な言葉を持ち合わせている。
いけばな作品について語るときも、その語り口は少ないよりは多い方がいい。ただし、実際に語るかどうかは別問題で、そのときその場の事情によって黙っていることを選択することもあるだろう。
さて、いけばなを語るために、いけばな以外の話題でもって遠回しにいけばなを語れる人もいる。いけばなをしたことがない教養人は、絵画や音楽の話を借りて遠回しにいけばなを大いに語り、私たちの教養を高めてくれるのだった。