古調 260217
2026/2/18
音楽を聞くことが好きだ。絵を見るのも好きだ。特別に熱心というほどではないから、そういう分野の物識りではない。物好きと呼ばれるような、偏った聴き方や見方はしている。そして新しいもの好きだった。
さて、好みが変わってきたからいけばなを始めたのか、いけばなを始めたから好みが変わってきたのか、25年前の自分に聞いてもよく分からない。その頃から、ほかの新しいものを摂取する意欲に欠けてきて、音楽も絵も、新しいものに接する機会が極端に減った。それは、行きつけの飲食店の開拓面でも著しく、生活全般において見聞する世界が小さくなったようだ。
それでも時間が足りないというわけは、同じ曲や同じ絵を繰り返し聴いたり見たりするからだし、その曲や絵の生まれた時代の物事に思いを巡らすことが増える一方だからである。これは、未来よりも過去の方が多くなった年齢相応の態度なのかもしれない。
「いいなあ」と思う曲や絵は、実際に古いかどうかは別として、古調(私の感覚としてはクラシックな様子)を感じさせる。これはいけばなも同様で、私も古びた新しさを求めたい。
値踏み 260216
2026/2/16
寿司屋の大将やレストランのオーナーシェフが、旅館の女将やホテルの支配人が、客を値踏みするような言動を取るのを見たぞという話を、たまに伝え聞くことがあった。そういう店は、取引先に対しても、同じような対応をするということを、私自身、調理・製菓やホテル・ブライダルの専門学校で勤めていて経験したことが少なくない。
いけばなをやっていて、初代家元が、花屋で買う花だけでなく、庭で摘んだような花も使いなさいという趣旨の発言をしていることを知り得る。これは、いわゆる立派な花を使うだけがいけばなではなく、身の回りの花材を生かしきることの大切さを教えている。そして、立派な花器だけでなく、身の回りの雑器であってもその魅力を引き出してあげなさいという教えだとも解釈している。このことは、私が知る茶道の教えの源流にも窺える。
値踏みが好きな人は、格付けが大好きだ。私は、自分の生徒さんに、そういうふうになって欲しくない。誰かより誰かが優れているなどと査定するような態度は、はしたないのである。
花は、いけたら、人になる。各人が突き抜けて欲しい。
はしたない 260215
2026/2/15
伝説や昔話によく出る「はしたない」という言葉は、最近あまり使われない。語義は、慎みがなく、礼儀に外れ、品格に欠けて見苦しいという、半端ない状態を指す、字面以上に怖い言葉だ。草月流100年の歴史は、昔と言うには短いが、それでも、はしたないことを避けるという点では、いけばな全体の伝統を引いてきた。
しかし、特に現代日本の政治の世界を眺めると、はしたない振る舞いが多くて困る。それは遠い間接的なものではなく、いけばなの立場にも私の神経にも直接関わるからだ。
「過ぎたるは及ばざるがごとし」は、やり過ぎ・有り過ぎは、足りないのと同じくらい良くないという意味で、この諺は、いけばなの「切って、切って、切っていく」態度を後押ししてくれる。「及ばざるは過ぎたるがごとし」と言わないところを思えば、日本人の感覚として、どちらに肩入れしているかというと、足りない方の側なのである。
これは、散り急ぐ桜に対する日本人の思い入れにも通じている。小野小町の歌「花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに」に、共感するようになった私だ。
切り続ける 260214
2026/2/14
傑作を1点でもモノにしたら万々歳だ、と思う人は二流である。一流は、傑作ができたと自画自賛しないし、歩みを止めることもないからである。一流はどこまでも描き続け、つくり続ける。
いけばなは、仮に自己満足できる作品ができたとしても、①長持ちせず、②持ち運べないという2つの理由から、長い期間、多くの人々に見せつけることができない。だから結局、短時間の存在であること、少数の人目にしかつかない可能性があること、この諦めを前提にして取り組む態度を磨くことになる。でもそれは、他人に対する態度に過ぎない。
ひと振りに全霊を込める剣道の素振りのように、ハサミを入れる一手に集中して切ることを繰り返す。日々のいけばなはそういうことであり、作品をモノにするという目的ではないような気がする。自分に向き合うとき、それが華道なのかもしれない。
だから、いけばな展に出品する作品を構想するのは、ジレンマが伴う。外見を見せたいのか、内面は見せたくないのか、目の前の形だけを提示するのか、毎日の行為の1コマを覗かせたいのか。いけばな展まで1週間を切った。
ユーモア 260213
2026/2/13
いけばなのカリキュラムに、「野菜・くだものをいける」がある。ユーモアのセンスが低い私が、最も苦手とする。なぜといって、野菜をいけてユーモラスにならないないわけがないのに、私の本能がそれを拒否するからだ。くだもの全部を握り潰して果肉と果汁が飛び散った現場をつくりたいくらいだ。
大根足、ドングリまなこ、かぼちゃ頭、桃尻、リンゴのほっぺ、おたんこ茄子等々、そんなに多くは思い浮かばないが、野菜・くだものは擬人化しやすく、また逆に擬物化もしやすいため、見た人がその1個1個を凝視して、形状や色彩に囚われ過ぎる可能性を思う。
野菜やくだもの、動物や花などのモチーフをパズルのように組み合わせて気味の悪い肖像画(寄せ絵)を描いたのが、16世紀のイタリア人画家、ジュゼッペ・アルチンボルドだ。その奇想の絵描きは、ハプスブルグ家には受け入れられたが、おそらく現代の松山空港や松山駅などのパブリック空間には受け入れられない。
蜜柑畑か椿の写生的な絵、または写真を展示して、横に「これはアートです」とユーモアを交えた説明書きが付くくらいだろう。