純化 250917
2025/9/17
いけばなのアプローチでの1つに、「単純化」がある。工業製品の大量生産では必須の条件なのだが、いけばなで言うところの単純化は、工業製品の生産における単純化とは意味が異なる。
草月における単純化は、「それ以上省略すると、その植物素材ではなくなってしまう、いけばなではなくなってしまう、というぎりぎりまで作品のあり方を考えていく(『草月のいけばな』より抜粋)」ということで、「最少の要素で最大のものが表現されていなければ(同抜粋)」ならない。俳句的といえば俳句的だと思う。
この作業は、不用な枝葉・無用な枝葉を削ぎ落し、残す枝葉を切ったり曲げたりして強調するというものだ。これを単純化と呼んできたのだったが、単純化という語句には効率化という概念が張り付いており、豊かさを増すという意味が足りていない。
そういうわけで、単純化に代わる言葉として、「純化」を推したい。ただ、この語にしても、私にはまだフィット感が薄い。純に磨くと同時に複雑さも増すような、相反する成果を実らせる感じである。磨いて開かせる大吟醸酒を造るやり方のイメージだ。
作品の消去 250916
2025/9/16
記憶しておくべき自分自身の作品は少ない。今や恥ずかしいだけの稚拙な作品にこだわることは、続けなければならない航海の途中、寄港した港に錨を下ろしてしまうようなものだ。
自分の作品だけでなく他人のいけばな作品も、片っ端から撮り溜めてきた。スマホの膨大な画像をさてどうすべきか。ということで、私は私の基準で、撮り溜めたいけばなの画像を少しずつ捨て去りながら、自分の好みを広げたり狭めたりしている。
人類史で、図書館が果たしてきた役割はとても大きい(私も青年期までは大変世話になった)。しかし、図書館が書籍を収蔵するだけで一切破棄しないとすれば……それは無理だ。すると、誰がどんな権利で捨てるものを決めるのか。制度上は決まった手続きで処理されているにしても、取捨選択の基準など、ほんとうは誰も決められないのではないか。
私が捨てられないのは、図書館にあるような、いけばなでいえば1冊の作品集、音楽でいえば1枚のCDやLPだ。一定の意図で編集された作品集は、作品制作の意図と編集の意図が二重に張り付いているからか、捨てるに捨てられない。
完全体 250915
2025/9/15
銀座木村屋の店頭に紅葉したモミジが飾られたと、テレビでレポートされていた。見ると真っ赤の葉が繁っている。枝は黒い。本物かもしれないが、人工物のように見えた。
人工物(工業製品)は、宿命的に標準化や単純化が求められるので、自然のモミジに見られるような「折れた枝」「虫食い葉」「部分的な枯葉」「枝の色味のまだら模様」などを再現しにくい。
ところで、韓国のタレントをはじめ、最近の日本の若い人たちの容貌もおしなべて非常に整っている。これは私の好むところではない。昔の映画でよく描かれたように、つくりもののアンドロイド的な匂いを感じてしまうからだ。日本のアニメの主人公は、作者が意図していたと思うのだが、『サイボーグ009』や『ブラックジャック』に見られるように、どこかに弱味や傷を負っていた。生き物である以上、人間もシミやソバカス、病気などがあってこその完全体である。
飛行機や自動車などには、不備がないという意味で完全無欠が求められるが、人間や人間がつくるいけばなには、どこか足りないか、どこか過剰な仕上がりが自然な印象を与える。
記憶の化石 250914
2025/9/15
人間の記憶量はとても小さいうえに、老化に伴って減退し死とともに消える。手帳や日記やスマホやパソコンに記憶させていた「個の記憶」たちも、ほぼ眠ったまま化石化する。片やクラウド上の「衆の記憶」たちは、増える一方なのだろうか。
大昔からの動植物すべての記憶総量は、DNAレベルのものを含むと相当量だろうが、進化した記憶装置やネットワーク等を含む地球全体の記憶総量は、どれだけ大きいのだろう。総量が加速度的に増えると、1人の人間が思い出さなければならない物事は、生きている時間だけでは到底足りない。過去を思い出すだけでも追い付かないのに、記憶すべきことをこれ以上新しくつくっていかなければならない人生には、どんな意味があるのだろうか。
さて、小学校以来、世界の名画といわれる実物を、何百枚かは見てきた。写真や画像では、ひょっとしたら千枚以上見たかもしれない。いけばな作品も、気付けば相当量を見てきた。見れば見るほど自分の糧になるはず。それはそうだが、人間の記憶量はとても小さいから、捨てて捨てて常に空きを作っておくことも大事だろう。
不完全作家 250913
2025/9/13
協調性を重んじるなら、手間なことをやらなければ成立しない。同意や共感を得たいなら、常識的な様々の要請に応える努力が必要である。そんな労力を自分に対して義務化するかどうか、これは作家としての自己プロデュースの方向性を左右する。ともすればプレーヤーでなく、ディレクターの側に近寄る。
人は誰でも、意図した何者かになれる。作家という肩書も、自己責任と自己の権利で表明できる。私も、しばらくのあいだ副業として恐る恐るいけばな作家を名乗っていて、生業を退職して今や専業いけばな作家を名乗っても構わない身分になったが、名刺に作家と書くのはためらわれる。偽者ではないから堂々と書けばいいものかもしれないけれど、自分の不完全さを自覚している以上、胸を張れない。
世の中には、未完の作家も数多くいる。学生時代に美術部員だったり演劇部員だったりした私は、未完の画家であり、未完の俳優でもあった。20歳代後半には、自室に希少品や珍品を並べて「百物館」館長を名乗ったこともあったなあ。
さて、今後のことである。不完全ないけばな作家の私の行く末や如何。