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いけばな随想
diary

つぼみと花 250801

2025/8/1

 ポピー(ヒナゲシ)のオレンジ色に咲いた花も、明るく濃い赤色の花も、凛とした強さと儚げな可愛らしさの二面性が美しい。細くて長い一見弱々しい茎も、守ってあげたくなるように愛おしい。ところが、そのつぼみの姿といったら、毛の生えた蛇の頭のようだ。つぼみの表皮の一部が縦に割れて、蛇の口のように赤い色がチロチロと見え始めた時が、いちばん怖ろしい顔つきになる。
 一方、ニゲラのように、つぼみから開花するまで一貫して怪しい姿を晒している花もあるが、彼らはポピーのつぼみほどには生々しくなく、花も薄い青紫の色味が上品で、軽やかでスタイリッシュな襟巻を纏っている感じ。宇宙からやって来た花みたいだ。
 ともかく、ポピーのようにつぼみから開花までの変貌が大きいのは、蝶の幼虫が蛹を経て成虫になる変化に匹敵する。醜いアヒルの仔が白鳥に成長するドラマのようでもある。
 一輪の花ですらこれだけ大きい変化を見せてくれるのだから、花を使っていけばなを作るのであれば、素材の花のイメージからもっと劇的に変化させていいはずだと、草月は言ってきたのではなかろうか。

花の記憶 250731

2025/8/1

 たいていの美術品や工芸品は、美術館や博物館に収蔵できる。しかし、いけばなはできない。それで1つ、思うことがある。いけばな作品には、タイトルの付いていないことが多い。名前もなく、美術館にも収蔵されないとなると、人々の記憶に残すためにはその現場での強い印象が必要だろうと。
 しかしである。いけばな展へ出向いて、私の記憶にしばらく残る作品は2つか3つしかない。記憶力が弱ってきたことも、自分と自分以外のものに対する興味が薄れてきたことも大きいが。さて、いけばな作家はどこを目指すべきなのだろう。自分の作品と自分の名を、何かのカタログに残したいというのか。
 いや違う。いけばなは、「いま、ここ」を大事にするしかないのではないか。どんなに綺麗に写真を撮っても、それは所詮平面的で、空間としてのいけばなはそこにはない。花の匂いもなければ、その場の温度もない。
 有名なレストランで素晴らしい料理の写真を撮っても、1年も経てば写真への興味は薄れてしまうように、素晴らしいいけばなも、写真になってしまった瞬間から、その魅力は枯れ始めるのだった。

闇夜の夢 250730

2025/7/31

 闇夜を好きな人がどれくらいいるだろうか。私が闇に魅力を感じるきっかけとなったのは、ロック・ミュージックだった。
 高校生になって、私の知らない世界観を持った友人に出会う機会が増え、同級生だけでなく後輩からの影響を受けることも増えた。どうしてみんなそんなにひねくれた大人なんだろうかと、不思議な気もした。そんな彼らから借りたLPレコードが、ブリティッシュ・ロックだった。ピンク・フロイド『The Dark Side of the Moon』、ディープ・パープル『Deep Purple Ⅲ』、ELP『Brain Salad Surgery』などなど、私にとっては暗黒からの使者たちだった。
 30歳を過ぎてから、日本の家庭やホテルの夜が明る過ぎることに気付いた。外国の夜は暗い。昔の日本も、蝋燭で過ごす夜は暗かったと思う。暗い夜だからこそ、夢を見ることができる。時代劇などを見ても、日本の昔の家は暗かった。至る所に陰がある。そんな場所に、ひっそりと花がいけてある。現代のテレビの、明るく陰のないスタジオ装花と対照的だ。
 闇夜に夢を見るような花、輪郭のぼやけたルドンの絵のような花、または古寺の襖絵のような花を夢見る。

木を見て森も見る 250729

2025/7/31

 いけばなを見る際、木を見て森を見ないような見方や、逆に森を見て木は見ないような見方をすることがある。
 気持ちが乗っていない人は、オペラグラスを持ち出さないと見えないくらい遠くから眺めて、早々に立ち去るということもあるだろう。また、いけばなには興味はないが植物には興味があるという人は、顕微鏡を貸し出したいくらいの至近距離で、目を見開いたり薄目にしたりして花の様子を観察していることもありそうだ。
 望むべくは、遠くからも近くからも見てもらいたい。人付き合いも同じ、と思わない? それが夫婦でも親子でも、時々肩を組んで時々は距離を置いてみる。業務上の大きい課題を背負ったときも、24時間イライラ考え続けるよりも、半日だけでも忘れて息抜きしてみると天啓を得たりする。
 いま、カメラの焦点距離について、ふと思い出した。①草に取りついたテントウムシを撮るときの短くて幅の狭い焦点距離、②野球の試合で友人だけを撮るときの長くて幅の狭い焦点距離、③旅先の町の風景を撮るとときの短長に広く対応した焦点距離。そんな感じで、木を見て森も見てほしい。

換骨奪胎 250728

2025/7/31

 先日は、枝葉末節にこだわる日本人気質に言及した。そういう日本人が突き詰めてきたものだから、華道も茶道も相当に細やかである。ところが、自分自身を振り返りお弟子さんたちの経緯を振り返ると、確かに枝先の重要性は高いものの、作風の幅を広げるためには十分でない。
 どんなに時間を使い労力を注ぎ込んでも、細部のマイナーチェンジではその努力が報われないのだ。最少の努力で最大の効果を上げるためには、換骨奪胎の意思が必要だ。新しい表現ができるようになるためには、新しい人間にならなくてはならないのだ。
 言うは易く行うは難し。しかし、そこを切り開いていくのが草月の本懐である。他人の作品を真似るのは、稽古としては正しい道だと思うけれど、それを展覧会でやるのは避けたい。また、自分の過去の作品を踏襲するのも手の技を究めるには適切かもしれないが、同じ表現をすることは自ら成長を止めることになる。
 人はラクな方へ引っ張られる生き物だから、無理をして新しい自分に入れ替えていかないと、新しい表現はできない。新しい表現をしないと、新しい人間にもなれない。

講師の事