汀州Japanlogo 汀州Japanlogo

いけばな随想
diary

集団思考 250224

2025/2/24

 友人や仲間がたくさん集まっている中で、大勢と異なる発言をするときは人々の顔色を伺ってしまう。この行動は私自身の性向で、周りの人々を眺めても同じような人が少なくないと感じる。同調しようとするお仲間がたくさんいらっしゃるのは安心だ。
 他方、ちゃんと自分の意見や美学を持っていればいるほど他人の意見に耳を貸さずに自分の意見を声高に叫ぶ人と、逆に遠慮してしまう人とがいる。何かを評価しなければならないとき、それがたとえば華展会場は高額でも集客力の高いデパートにするか、集客力は低いが安価に借りられる公共的施設にするかを決めるとき、意見が拮抗していれば、なおさら神経質な私は遠慮して口をつぐむタイプだ。
 自分に意見がない場合、賛否が拮抗している状況というのは不都合である。周りの意見に同調して大声を上げることができない。ぐずぐずしていると、自分が多数決のキーマンになってしまう危険性が高いからだ。
 今日まで「全国くらしの器フェア」でいけばな展示があって、「このいけばなは素敵ですねえ」と同調を求められた私は、心にもなく同調してしまった。

いけばなのタイトル 250223

2025/2/23

 自分のいけばなに、時々タイトルを付ける。付け方には2タイプあって、テーマを突き詰めてタイトルにするものと、花にはお構いなくキャッチーさで題名を付けるものとである。
 前者は、自分がいけばなで目指したところの雰囲気や意図をタイトルにするけれど、意図を言葉にしてもしっくりこなくて、自分でがっかりすることも多い。後者は、テーマが糞まじめな場合に親しみやすさを演出したり語感優先で選んだりしているので、そのタイトルがちゃんと作品を表徴しているとは全く言えない。
 さて、筒井康隆が著作『点景論』の中で「万人が万人ともタイトルと内容の一致を認める著書などあり得ない。あるとすればそれは内容をそっくりそのまま一字一句違えずタイトルとした場合に限られる」と言っている。
 文字で起こした文章ですら少ない文字にしてしまうと何か物足りないのだから、花で表現したものを文字で端的に言い表せなくて当然だろう。絵画においても、作品名を付ける人と「作品49」とかの記号で表す人と「無題」と書いてしまう人がいる。私は、作品と作品名のギャップを楽しむ輩である。

花との対話 250222

2025/2/22

 亡き母の誕生日である。彼女の晩年は俳句や俳画、油絵や篆刻に人生を割いていた。私が母を顧みなかったから、母の対話相手が人間ではなく花や虫になってしまったと申し訳なく思っている。
 しかし、花や虫のいいところは、人それぞれのペースに合わせて対話してくれることである。花はまた、相手の人の求める深さや広さ、早さにも調子を合わせてくれる安心な存在だ。業務上のプレゼンで急いでたくさん喋ることはしんどかったし、企画コンペの場では競合他社の提案はいいなと思っても、自社代表として自分の企画を優れたものとしてゴリ押しする必要があった。人間同士だと対話よりも主張の衝突が多く、学生にもディベート力が求められたりして同情する。
 昨晩のテレビで「椿の花はなぜ冬に咲くか?」という問いが設けられ、答えは「メジロやヒヨドリに蜜を吸わせて花粉を運んでもらうため」という答えが示された。それを知ったところでいけばなにどう関係するの? と思うかもしれないけれど、今度から椿との対話に幅ができ、より理解が深まってパートナーシップみたいなものが生まれると嬉しい。

「道」とは 250221

2025/2/21

 ちょっと解った気がした。華道は態度であり、いけばなは行為である。
 昨日から今朝にかけて「全国くらしの器フェア」でいけばなを制作したが、第三の目(花器製作者の目)にプレッシャーを感じて心が弱くなり、花器の口元を埋めてしまう仕上がりになった。自分の最善を尽くしたが、心の内では「隙間隙間! 余白余白!」と念仏を唱えるように呟き続けたものの技術が追い付くことはなかった。つまり、花器の口元に呼吸ができる隙間を空ける華道の態度で臨んだものの、窒息させるいけばなの行為でしか対応できなかった。ますます研鑽を積むよう自覚させられるありがたい2日間だった。
 さて、口元が窮屈になり息も絶え絶えの作品をついには殺してしまいかねない状況だったから、何とか息を吹き返してやる必要があった。で、仕方なく前の方にせり出していたコデマリの枝の途中の葉と芽を摘み落とし、作品全体の空気の通りをよくしていった。
 私はともすれば提灯アンコウの光る誘引突起みたいに長く細く伸びた枝を使いたがることも、今回の作品制作過程で自覚した。この癖の克服も遠い道のりである。

第三の目 250220

2025/2/21

 いけばなの際に意識するのは、第一に自分の目、第二に他人の目。どのようにいけたいか追究する自分の目が軸になって制作は始まり、それを見てくれる他人の目を想像してあれこれ手直しをする。自分の目と他人の目を入れ替えながら、1つの作品が出来上がりつつあった。
 きょう「全国くらしの器フェア」で、出展窯元の作品16点に愛媛の華道団体から16人が参加していけばなをいける機会が用意された。搬入・設営の合間に、私もいけばなをいけながら花器を提供してくれた人とお会いできた。これによって私の目に少し狂いが生じた。その壺には16万5千円の値札が付いているので、その価値を減じる花を入れては面目ないのである。花器をつくった人の目、これが第三の目として大きく睨みをきかせてきたのだった。
 狂いが生じたと言ってしまったが、よりよい立ち位置を教えていただいたと言い換える必要がある。第三の目の出現によって私のプランは未完成だったと気付き、準備した花材だけでは完成しないと判断し、明日の朝、追加の花材を入れるとともに余分な葉を取り除くという結論に至った。

講師の事