花材の調達 251031
2025/10/31
工業化だの情報化だのグローバル化だの、現代社会は大きな変化を伴ってつくられてきた。これはひとえに生産する側がもたらした環境変化であり、その生産する側からの働きかけによって、消費する側もその恩恵にあずかってきた(翻弄されてきたという感が強い)という認識はある。
今日のニュースで、唯一営業を継続していた砥部焼の陶石採掘業者が、事情で経営を停止するという爆弾発言を行った。砥部の陶石がなくなると、これ以降愛媛の伝統的産品がどうなってしまうのか!? という衝撃的な事件である。
いけばなは、昔は自給自足的に身の回りの花木を切り花にしていたと想像するが、現代では生産する側(軸となっているのは生産者よりも流通)に依存しつつ、商品としての花を消費して組み合わせるのが一般的だ。裏山もなければ庭もない人が多いのだから。花の供給がストップすると、もういけばなは成り立たない。
ひところ、農産物生産者が販売まで行う六次産業化が話題になっていたのとは逆に、いけばなをする人が自ら花木栽培を行う必要性が出てきたということだ。滅びる前に考えなくては。
正解のないいけばな 251030
2025/10/30
「簡単に言えば云々」ということが、よく言われる。いけばなとは簡単に言えば、はなをいけることである。これで終わると身も蓋もない。いけばなは、華道と呼ぶ世界よりも広い。しかし、何でもあり、ということでもない。
ともかく、剣道や柔道、書道や茶道に比べて、いけばなと呼ぶようになってからの華道は、より一般の方々には分かりにくい存在になってしまったようだ。華道の構えを持ったままで、繰り出す技が多彩になり、ついには反則技までも許容してしまったのがいけばなである。言い方が上品でないかもしれないが、解りやすく言うとこうである。
特に日本人は良い意味で保守的だから、混沌とした国際社会において“伝統が失われていない日本文化”が注目され、浮世絵などは明治時代から外国人に買い求められた。今では抹茶の品不足が起こり、包丁が高値で売れ、日本酒の輸出も多くなった。
国際化がいち早く進んだものの1つが柔道であろう。青い柔道着も定着し、外国人の審判も増え、国際ルール化が進んだことで、エンタメ性が高まった。いけばなは、華道に比べると正解の範囲が広い。
シェイプアップ 251029
2025/10/30
夜の11時に4km歩いた。知人宅の郵便受けに書類を届けるためだ。この数ケ月というもの腹囲が強烈に太り、我ながら酷いと気になっていたから、車を使わず歩いて行くことにした。今日だけの思い付きではなく、この1週間は本気でマズいと思っている。
さて、24歳か25歳のとき、『シェイプアップ』という歌を作り、多重録音ができるカセットテープレコーダーに吹き込んだ。当時は金に困っていて、頭の中にはいつも金のことが渦巻いていた。また自己肯定感が低く、名誉欲にも飢えていた。そんなマイナス指向の数々の考えを、もう1人の自分は“精神の贅肉”と感じており、冬の木立のように心をシェイプアップしたいと思ったのだった。
いまも様々な雑念がある。あれ以来、心のシェイプアップが全然できなかったこと以上に、身体のシェイプアップが差し当たって深刻な課題だ。
この半年余り、自分のいけばなにも贅肉が付き始めている。それは、不用な花材を付け足してしまう贅肉と、1本の小枝や1枚の葉を思い切って切れずに残る贅肉だ。もっとストイックでスマートないけばなに仕上げたい。
他有化されないいけばな 251028
2025/10/28
ドライフラワーやプリザーブドフラワーなど、非生花が世の中に多くなってきた。そのことの良し悪しではなく、生花を中心に扱ういけばなの特徴に関連して、哲学的用語「他有化」に着目したい。
マルクスの「疎外された労働」というのは、人格から引き剝がされた生産性によって人の労働が評価され、また生産された製品が生産者を離れて購買されて他人の物になるという二面から指摘されている。その意味で、ドライフラワーやプリザーブドフラワーによって製作された作品は、「疎外された労働」による「疎外された商品」である。
しかし、いけばなは特定の環境(空間と時間の両面)に合わせて制作されたインスタレーションという性格を持っており、その場から引き剥がして別の場所にそのまま移設するということのナンセンスさがあるため、制作者の意図や感性を無視して一人歩きしにくい。
また、重力に対して微妙な傾きであったり、圧迫力に対して非常に弱かったり、運搬に際して強固に安全に梱包や固定ができないなどの条件も重なり、制作者の目が行き届かない所での「他有化」が困難なのだった。
リハーサル 251027
2025/10/27
昨日は、いけばな展の撤収日。いけこみが“1日仕事”になるのに対して、撤収は“1時間仕事”で終わる。虚しい。
ダンスや演奏会などはリハーサルが行われることが多いが、いけばなでは行わない。花材が傷みやすいこと、一度枝を切ってしまうと元に戻せないこと、生鮮野菜以上に花材のサイズや形状や色にバラツキがあることが、リハーサルの労力を無意味化する大きな要因である。団体演舞ではなく個人戦であることもリハーサルを要しない理由だ。また、水を扱うので、試作作業をみんなが行うと、会場じゅうが切り屑と水とで汚れてしまうだろう。そんなわけで、“1日仕事”の準備作業といっても、おしゃべりが半分以上である。
いけばなは、“下書き”というものがなく、制作のほとんどはぶっつけ本番だ。ただし、頭の中で構想を練るのは自由だから、花材と花器とが決まった時点で、頭の中の下書きはかなり具体化することが多い。問題は、実際の花材を手に入れてからである。
手に入った花材の持ち味を生かすべく、それまでの構想の全てを捨てるときもあるくらい、花材1つ1つの個性は強い。