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いけばな随想
diary

精神と身体 241018

2024/10/19

剣道を思い浮かべる。剣道はオリンピック競技になっていないが、フェンシングはオリンピック競技の1つだ。私は未経験なので想像するしかないが、剣道には武士道精神や礼儀など精神的な軸が据えられていると理解している。フェンシングに騎士道精神が宿っているかどうかは知らない。

フェンシングは突いたり切ったりした判定が電気的に行われている。素人がコメントするのは失礼ながら、だから体勢や気合いなどは評価されない。競技上は結果がすべてである。

一方、剣道は人間の審判が判断する。しかし、剣さばきが早過ぎて、いや、判定基準もおそらく審判個々に差異があって、審判でさえ全員の判断が必ずしも一致しない。仮に剣道がオリンピック競技になったら、やはり電気的審判やビデオ判定が導入されるだろう。しかし、それでは「肉を切らせて骨を断つ」的な、選手の狙いや技の確実性が評価されなくなりそうだ。

華道を含む「〇〇道」は、身体行為の内側にある精神性を重んじてきた。だから、結果だけでなく目に見えない取組姿勢(鍛錬そのもの)を大事にするから、習う先に終着点はない。

伝統的な文化 241017

2024/10/19

いけばなの歴史は室町時代に遡る。600年の歴史ともなると押しも押されもせぬ伝統である。ただ、伝統という言葉には固定化された印象が付きまとうので、伝統文化と聞いて形骸化したつまらなさを感じる人もいるだろう。

しかし、1人の人間が生まれ、成長過程で身長も人格も変えていくように、いけばなも室町時代に生まれてから幾多の時代を経るうちに、その実態はどんどん変化してきたはずである。現代のいけばなが600年前とは全く違った見かけと中身を持っていても不思議ではない。

ところで、文化というのは、狭いジャンルのみで独立して成立できるようなものではない。いけばなを取り巻く様々な要素との関係性の中に文化が生まれる。建物、部屋の間取りやしつらい、衣服や花器の種類、入手できる花木の種類や量、気候や夜間の照明……、挙げればきりがない要素と共にいけばながある。

こんなに周辺の要素が変化しておきながら、いけばなだけが伝統的であると言い切るのは不自然だ。伝統的であると言うならば、変わっていないものが何なのか、いま一度問い直してみることも必要である。

成長の源泉 241016

2024/10/19

いけばな展(10月11~13日開催)を振り返って感じるのは、52人の出品者の作品のバリエーションが豊かだったことが大きい。大小もさまざま、キャリアもさまざま、スタイルもさまざまで、会場全体に自由な気分が充満していた。

団体競技でよく言われるのは、選手1人ひとりの個性が際立っていて、かつ組織としてのまとまりがあると強いということ。芝居やドラマも同様で、似たような外見や才能の俳優は2人も要らない。その点で、私たちのいけばな展は、各作品が一見バラバラなのに全体として「意外性に満ち、楽しくて元気がもらえた」という評価が多かったことからも、展覧会としては成功したのではないかと自負している。

独自性というのは他人との比較によって生まれるもので、他人の存在を意識しないところには生じて来ない。他人との比較を通して、もっと自分らしくありたいという気持ちは高まるもので、他人がいてはじめてオリジナリティは獲得される。

いけばなは伝統的文化に位置付けられているが、少なくとも草月には、常に今の自分を超えていこうとする意欲がみなぎっている。

発見と発明 241015

2024/10/19

1990年代、路上観察にハマっていた。大師匠の赤瀬川原平さんの率いる「路上観察学会」の流れを汲む「えひめ路上観察友の会」の流れを汲んで、私は「松山まちかど探検隊」を組織した。

路上観察の妙味は、たとえば、「ゴミ捨てるな!」と書かれた看板が用水路にゴミとなって仰向けに沈んでいる光景を発見し、その絵づらが「もののあわれ」を感じさせるようであれば即座に写真を撮って、「天に唾吐く堕天使」とかいうタイトルを付けて遊ぶという、遊び方の発明でもあるところである。発見と発明の二重の創作活動という、新しい芸術のありようを生み出した赤瀬川原平さんは、やはり天才だったのだ!

私たち凡人は、それを再発見するのが関の山なのだけれど、モノとモノ、モノとコト、モノとヒトなどなどを新しく関連付けしていくことで、いけばなの可能性は大きく広がると思うし、実際に草月の歴代家元も、現本部も、各支部も、そういう多面的な新しい関係性を創造しつついけばなをやっている。

そうして出来上がった作品もさることながら、それを生み出す姿勢と行為こそが草月の魅力だろう。

イメージの羽ばたき 241014

2024/10/18

人はゼロから何かを生み出すことはできない。いけばなを創作するにも、花材のことを何も知らないでそれを使うことはできないし、ネジ釘やワイヤーの存在を知らずに竹を組むこともできない。

また、先人の作品を知っていて、いけばな世界の広がりを地図化することができるから、自分の進路を設定することも可能になる。できれば、これまで誰もつくらなかったもの、さらにできれば、この先も誰もつくらないものを目指したい気持ちがある。目の前で見た他人の作品の発想や形状の一部を取り込みたくなるものだけれど、目に見えていないものをつくりたい欲求が上回る。

しかし、時には人の作品への嫉妬や、世間の目に対する躊躇などによって、自分のイメージが全然羽ばたかないこともある。心が乱れると小さな悪いイメージがたくさん湧いてきて、想像力が閉ざされ、些細な現実的問題に右往左往することになる。

個性的な作品を創作するという場合でも、結局は他人や他の作品の一部または全体的イメージを模倣して組み合わせているに過ぎないが、この諦めを受け入れることで、改めて再出発ができる。

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