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いけばな随想
diary

影向の松 251014

2025/10/14

 靖国神社参拝の話になると神性よりも政治性がクローズアップされ、戦没者を慰霊するという性格が共通するため、護国神社に対しても国によって創建されたという誤解も加わって、“さわらぬ神”扱いを受けることになる。日常生活においても、神性というのは常に私たちの身の回りにありながら、常に見過ごされるようになった。
 神社で献花する花を選ぶ際、その筆頭となるのは黄菊である。今でこそ通年で用意できるが、本来は秋の花なので春や夏はどうしていたのだろうか。枝ものについてはよくわからないながら、花札の“赤たん”の役の組み合わせで有名な松梅桜は、それぞれ1月、2月、3月を代表する縁起の良い木だと思う。
 季節に左右されないということでは、常緑樹の榊(サカキ)であれば、神事でいつも使えることから、玉串で奉納するにも具合が良かったということだろう。松や椿も、花ではなく葉の緑を生かすには都合がよい。
 神様はたいていどこか遠いところにおられて、稀に降りておいでになる。それを影向(ようごう)と言うのだそうで、能舞台の背景にも「影向の松」が描かれている。

思考も道具 251013

2025/10/13

 きょう、松江・八重垣神社の草月流島根県支部展に行った。先日、愛媛県護国神社の大祭に身を置いてから神社の2連チャン。
 いけばなの道具はハサミ1本である。花器は道具というより花材の側に分類すべきだ。ワイヤーや釘などは、いつも使うわけではないので除外しておく。微妙なのは剣山だが、投入では使わないし、工夫すれば剣山なしでもいけられるし、剣山の代用品を見つくろうことも可能だ。
 それでは、ハサミを握れば誰でもいけばなができるかといえば、それは簡単ではない。何も思いつかなければいけばなは始まらないし、始められたとしても、制作過程で「ああでもない、こうでもない」と試行錯誤しなければつまらない作品になる。
 島根県支部展で私が見たのは、その試行錯誤の痕跡。次の例は半分想像で、「作品の倒壊を避けるため、境内の小川に架かる橋の欄干に作品を固定したいが、よろしいですか」という問いかけに、勝手を知らない神社は「うーん」と唸るばかり。島根県支部は仕方なくテープで養生したが、結果は悪目立ちしていた。こんな時、思考という隠れた道具で一気に打開だ。

神社と花 251012

2025/10/13

 今月10日は護国神社の慰霊大祭で、終戦80年の特別な日でもあった。大祭後の直会の席で、神職が太鼓の話をされた。神社の太鼓の音には、邪気を払って場の空気を浄めること、神様をお招きすること、神事の開始を告げることという意味があって、その重要さは計り知れない。
 そんな神社に献花をするのは、よくよく考えると大変なことだ。そもそも芸術というのは一種の革命的蜂起を使命としている。既存政権の打倒ならぬ、既存の価値観に対する絶え間ない疑問の投げかけである。それは草月流のスタイルでもあるから、下手すれば神様に対するバチ当たりになりかねない。
 そこで思い返しておきたいのが、いけばなを「場にいける」という絶対条件である。場の提供者や利用者を尊重する姿勢で臨むため、革命的ではあっても革命をそこで引き起こすわけにはいかない。だから、草月だと声高に言いつつも、保守的な振る舞いをすることもあるだろう。
 これだけ自由や個性が謳歌される時代になっても、手水鉢を可愛く飾るにしても、どこまで「場の伝統」と折り合いをつけるかというのは大きい問題である。

道 251011

2025/10/12

 昨晩、むかし勤めていた会社のOB会に行った。定年退職を迎える社員が少ない伸び盛りの会社で、多くが中途で転職していた。同じような境遇の者たちだからと思って半ば安心して出席してみると、私がほぼ最年長だったので肩身が狭くやや緊張したのだった。
 しかし、同じ釜の飯を食った者同士は、転職して別の“山”を登っていたかのように見えて、実はやっぱり同じ山を登り続けていたのだと感じた。就業当時は、意見の相違やスタイルの違いが浮き彫りになることもあったが、振り返ってみれば大した差ではなかった。
 いけばなの“山”も、富士山どころではなく登山道は流派の数以上に無数にあって、しかし、登ろうとしている山は同じかもしれないのである。文明開化から高度成長期までは、いけばなも隆盛期を迎えていたから互いに競争していれば良かった。けれども、今は足の引っ張り合いをしている場合ではない。
 異なる道で同じ山の登頂を目指している良きライバルとして、応援し合うことや時として助け合うことが必要である。問題は村社会の伝統から全然抜け出せない田舎のいけばな界である。

いけばなと生け花 251010

2025/10/10

 ひらかなを平仮名と漢字で書くのは、おかしいと言えばおかしい。ひらがなと濁音を交えて書くのも嫌う人がいる。いけばなは、生け花と書かれることが多く、活け花というのもたまに見かける。いけばなとひらかなで書くのは草月流の習わしである。濁音を交えず「いけはな」と書く方が、日本語の伝統に則っているかもしれないと心の片隅で思う。
 私は25年間、いけばなと書きいけばなと発音してきたので、今さら生け花と書かない。代々の家元がいけばなとの表記を変えずに継承しているのには、きっと理由があるのだと思っている。間違っていたら恥ずかしいので私の解釈を他人にほとんど言わないし、またそれを家元に聞こうとも思っていない。
 ただ、ひらかなで取り組むいけばなと、漢字交じりで取り組む生け花とは、何か本質的に異なるように思う。生け花には凛として背筋の伸びた感があるのに対して、ひらかなのいけばなには、何かボーとした雰囲気がある。「どうだっていいよ、思うようにやってみな。ただ、責任は自分で取れよ」みたいな、遠巻きに見て遊ばせてくれそうな、融通無碍な感じだ。

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