再会 231026
2023/10/26
高級ホテルのスタッフは、お客様に「おかえりなさい」とよく声掛けするようです。それは、宿泊客のたった1時間の外出からの戻りでも、3年ぶりの宿泊のチェックインでも……。
秋祭りも終わり、私は1年ぶりに金木犀の花に「おかえりなさい」を言います。しかし、金色のかわいらしい花は、本当に短時間でハラハラと散りこぼれるし、いけばなで使ったことがありません。その木は父母が他界した後に植えましたが、たぶん私が生きている間はこの花と再会し続けます。互いに何かの約束をしているわけではないけれど、だんだん旧友の関係に近付いているようです。
過ぎたこの夏、小中学校の旧友と45年振りに東京で会いました。意識的に会ったのは48年振りです。もちろん生きた人間同士なので会話もしたし、一緒に御飯も食べました。しかし、よそよそしいというわけではなく、なんとも人間臭くない肌合いの、植物化しつつある人間同士のような落ち着いた距離感で、居心地のいい懐かしさに心が温もりました。
高級ホテルのスタッフは、そんな幼馴染のような、庭の木のような心地よさを持っています。
侘び寂び 131025
2023/10/25
茶道の侘び寂びはしっくりくるけれど、憧れる一方で、華道は侘び寂びだけではないという気持ちがあります。華美に傾き過ぎるのは避けたいと思っていますが、結婚式などの祝いの席にはそれにふさわしい華やかさも必要でしょう。華美であれ、侘び寂びであれ、粋(いき)な空間に仕立てたい欲求があります。
ところが、達観していない私がいけばなをする時、人に驚いたり見入ったりしてほしい余りに、その場所の趣を変えてしまいたくもなるのです。敢えて調和を乱すような衝動に駆られたりもします。そして、それが行き過ぎた場合、奇をてらったようになって空間を台無しにしてしまいます。
いつか昔、足摺岬でボーッと2時間、海面を渡る風に見入っていた時、瀬戸内海の無人島の浜で、夜通し星空を仰いでいた時、キャンプ場で夜更けまで焚火をして、火の粉を虚ろに追いかけていた時……。侘び寂びは、人に対する意識が薄らいで(消えて)、心が風景に溶け込んでしまう状態になった時に訪れるのではないかという気がします。人目を意識するうちは色気が勝り過ぎて、心がうまく枯れてくれません。
多様性の調和 231024
2023/10/24
ソビエト連邦最後の指導者ゴルバチョフが、次のように言ったそうです。「類似性の調和ではなく、多様性の調和でなくてはならない」。
しかし、SNSが出会いの契機を作るこんにち、相当に意識的でなければ、自分の興味関心に通じる物事としか出会えないように思います。しかし、自分に似たもの、自分の好きなものと出会い続けることで何が起こるかというと、似たものの中でもより似てないものを排除したり、好きなものの中でもより好きなものとしか付き合わなくなるでしょう。それが悪いとは言いませんが、私は好きではありません。
結局のところ、人は自分がストレスを感じない物事に取り囲まれていたいのです。だから、意図的に感覚を押し広げ、「井の中の蛙」にならないようにしなくては! UQ MOBILEの広告でしたっけ? 「リスクを冒さないことこそ、最大のリスクだ」。
インターネットの世界であろうと狭い近所付き合いであろうと、意図的でさえあれば知らないことに出会えます。既知の世界に安住せず、広大無辺な未知の世界でいけばなをしたいと思います。いけばなは、多様性を調和させる訓練ができます。
非実用で行こう 231023
2023/10/23
この数日、「華道」と「いけばな」の関係性にこだわっています。
「華道」からの連想で「茶道」を思い出します。浅薄な理解で恐縮ですが、その昔、クライアント・ファーストに我慢できなくなった利休が命を断たざるを得なくなったのは、自分の信念を曲げることに妥協できなかったからです。他人のそれよりも、おそらく自分の人生を掘り深めることが〇〇道の真髄という点で、茶道も自分ファーストです。
そして、華道も元来自分ファーストだと思うのですが、かつて花嫁修業の一端を担っていた頃の華道は、家庭や職場で実用的でした。以来、華道はともかくとして、「いけばな教室」はクライアント・ファーストで糊口を凌いできました。
しかし、実用にシフトしていたいけばなも、より直接的にお金を増やし効率的に時間を短縮することが正義の現代社会では、非実用的だと見られます。なおさら、華道は唯心的・自省的で外から分かりにくいため、実用面から疎遠にされます。
ゴールの出来以上にプロセスの完成度を高めたい華道は、「武士は食わねど高楊枝」っぽい精神性でカッコイイのにね!
面白さの見つけ方 231022
2023/10/22
浮気性は、私の回りの人を傷つけてきました。それはどうしようもなく良くないことです。
一方、習い事を継続できるかどうかも、これまた浮気性と関係していると思います。逆説的ですが、飽きっぽい人の方が、1つの物事に対して長く興味を持ち続けられるような気がしているのです。
1つの物事に対してどっぷり浸かっていると、「茹でガエル現象」と言われるように、身近な環境に甘んじて鈍感になってしまい、気付かないうちに大きく変化していた外界に不適応となって死んでしまう恐れがあります。死なないまでも、小さな世界に胡坐をかいていると発見もなくなり、つまらない日々を送るようになります。
いけばなに対する私の刺激の大半は、いけばな以外から得ています。関係なさそうな出来事が「いけばなの参考になりそうだぞ!」と感じさせてくれたときや、いけばなに生かせそうな言葉と出会ったとき、「ああ、自分は結局いけばなを軸にしている」と再認識します。いけばなと別の何かとの新しい関係を発見すること、これが面白さの全部です。いけばなだけで、いけばなをやってはいられません。