セルフプロデュース 241209
2024/12/11
私にも迷いや悩みがたくさんあって、その1つが自分のキャラクターをどう作り上げていくかということ。本来の自分に対して、タレントとしてのもう1人の自分を作ること。本来の自分がプロダクションの役割を担って、別人格の玉井汀州というタレントをこの世に売り出す大仕事である。
しかし、タレントが1人歩きを始めたら、もとの自分はどうなてしまうのだろう。お亡くなりになった中山美穂さんが32歳でパリに移住したのは、タレントとしての自分がどんどん増大化し固定化していくことに反発し、霧のように消えかけた本来の自分を取り戻すためだった。
いまSNSでの発信力の高い人がその発信情報を上手くコントロールすれば、いくらでも自分自身を売り込むことができる。ただ、売り込み方を間違って誤解されることも少なくない。それよりも私の問題は、私が私の枠を超えられないタイプの人間なので、どんなに足掻いても第二第三の分身を生み出すに止まり、新しいキャラクターを作り出せないだろうと諦めていることだ。
私が作りたい“花咲か爺さん”のキャラがあるにはあるが、覚束ない。
大義 241208
2024/12/8
同じジャンルで動いている者同士は、互いの細かい動きや専門的な考え方まで、全部くっきり見えてしまう。だから、近い者同士は分かり合える部分も大きいけれど、ちょっと違うと感じる部分もたくさんある。い
けばなでも、流派が違えば使うハサミや剣山の形も違うくらいだから、いけ方も全く違うくらい差がある。しかし、一般的には、どれも似たようにしか見えない。
異なるジャンルに属する者同士は、互いに遠過ぎて細かい所はぼやけて見える。何を見たらいいかわからなくて焦点が合わないから、遠い者同士は細かい衝突が起こる心配がなく、大雑把に俯瞰して大義で共感し合える。視力の弱い者は、なお幸いである。嫌なことでもぼんやり流せるというか、利害にこだわらず「ま、いいか」で全部済ませられる。
ビジネス界の同業組合は、共通の利益追求を表立って行う。いけばなの無数の流派は、それぞれが牽制し合いながら表では大人の付き合いをしつつ、大人になり過ぎているというのか、特に地方では互いに「さわらぬ神に祟りなし」で、冷めた気分で足も引っ張らないが助け合うこともしない。
距離感 241207
2024/12/7
人間関係の距離は、ときに近しい人と遠くなったり、遠い人と急速に近くなったりする。趣味が同じ人同士の場合は、特にその現象が起こりやすい。
趣味が同じということで、その技術や知識が狭い範囲で重なっているため、ちょっとしたことに差異を見出してしまうから、普段は仲良くしていても、ひょんなことで対立したり対決したりすることもなくはない。また、異なる芸術分野で活動していたらいたで、いけばなをする人が書に手を出すと嫌悪感を示したりプレッシャーをかけたりするような書家もいる。
しかし、私は向う見ずに何にでも手を出すタイプで自信家でもあるから「まあ、何とかうまくいくんじゃね?」という姿勢だ。意見が食い違う華道家よりも、意見に重なりがありそうな音楽家の方が、自分との近さを感じる。門外漢だとしても、感覚(センス)が近い人にはとても親近感を覚える。
音楽に限らず、書道や絵画や、または医学や宗教やお笑いでも、表現するときに拠り所にしているもの(それは制作以前の思いや姿勢)を理解し合えると感じるとき、その人との距離感が限りなくゼロに近付く。
共通言語 241206
2024/12/6
人間は、言葉でコミュニケーションできる……はずである。しかし、感覚的に相容れない者同士のとき、人間同士であっても全く言葉が通じない。
いけばなの世界でも、他のジャンルでも、それに対する思い入れがない人にはいくら語っても通じないものだ。「だから諦めなさい」と言われても、やはり自分が好きなことに関しては、できれば少しでも多くの人に受け入れられたいと思って、言葉で語り続けてしまう。
昨日「石丸繁子書道展」で、揮毫のパフォーマンスを鑑賞した。お昼の2時スタートで、BGMは『夜のタンゴ』。いろいろ試して、「この曲でしかありえなかった」との本人談。2分半くらいのその曲に合わせて揮毫していく様に見とれていると、とてもそんな短時間だったとは思えない充実度だった。
今日、テレビで言語学者(?)が語っていたのは、音楽が鳴ると人が踊りたくなるのは、人が言葉をしゃべる生き物であるからだという。赤ちゃんが言葉を覚えるときもリズムを伴って覚えるように、言語は身体感覚を伴うらしい。その逆として、身振り(ダンス)は共通言語になりうるのであった。
ハイブリッド着物 241205
2024/12/6
先日ラジオに、ハイブリッド着物の製造販売業者が登場した。聞き手のアナウンサーは、着物ならば着物の伝統を引き継いだ何かがあるでしょうという前提で話を始めたが、話し手の業者は、和装と洋装をハイブリッドしたハイブリッド着物は、「もはやハイブリッドの着物ではなく」、伝統的な和装の着物とは全く異なるジャンルなのだと返していた。
このやりとりを聞いて、私は即座に華道界のことに置き換えてみた。伝統的な華道と「いけばな」と呼ばれるものとは、全く別のジャンルになってしまっているのだろうか? いろいろ調べても、納得のいく答えはない。
しかし、「場にいける」「いけたら花は人になる」という立場の草月は、華道であるとかいけばなであるとかいう狭い境界を跳び越えて、芸術全般とのハイブリッドが既になされている。草月は、華道と呼ばれてもいけばなと言われても一向に意に介さないのは、どちらでもあって、しかもどちらをも含みこんだハイブリッドだからなのだ。
ハイブリッド着物は着物を拒否しても、ハイブリッドいけばな=草月は、ハナから何もかもを抱き込んでいる。