苔梅 260115
2026/1/15
護国神社に奉献した正月花の手直しに行った。今日は、多くの若者が清掃奉仕をする姿が目立つなかで、梅の古木に張り付いた苔を注意深く削ぎ落としている高齢者が1人。
せっかく風情のある苔を、なぜ落とすのか理由を聞くと、「例年これをしていた人が、去年体調を崩して手が付かなかったから、今年は自分がボランティアでやっている。苔が付いたままだと木が弱るから」。私はそんなことも知らず、苔むした枝の「苔梅」を、ただ貴重な花材として認識しているだけだった。
茶器の歪みや割れや欠け、金継ぎなどの景色を愛でる美的感覚と、ゴツゴツした荒れ肌にも見える苔梅を愛でる感覚は、少しは似ているのではないだろうか。そしてこれらは、日本人の特筆すべき性分なのではないだろうか。そう考えて「いや、いや、いや」と即刻否定する私。
茶器については、そういう“へうげもの”を好む“織部好み”は伝統的感覚でも、花器については聞いたことがない。現代の花人が苔梅を好む理由が、高額だからというだけでは哀し過ぎる。霧の舞う山蔭に苔むす枝に、赤い蕾がふくらんでいる梅は美しい。
性懲りもなく 260114
2026/1/15
性に合うと、そこでは損得勘定が消え、ただ面白さだけに身をやつすことになる。職人気質というものかもしれない。思い返せば広告会社で営業をしていた頃、顧客に企画を説明し料金交渉している時よりも、残業して企画書をひたすら作成し続けて朝を迎える方が、充足感が大きかった。
今でも、ワーク・ライフ・バランスというバランスの取り方が、腑に落ちていない。ノリというものは、授業時間のように区切られた時間の長さに収まることがない。長距離ランナーのレースでの駆け引きも、不意にスピードを上げてライバルを揺さぶったり、早目にスパートをかけて相手の気力を萎えさせたりと、時間の使い方のリズムに濃淡がある。
彼らのリズムの変化には計算もちゃんと働いているだろうけれど、私の場合は夢中になっているから、全く計算がない。トランス状態というか、スポーツにおいてゾーンに入ったという状態だろうか。
いけばなは、外から見ると、何年も同じことを性懲りもなく繰り返しているに過ぎない。が、やればやるだけ、1秒を削るアスリートのように、奥深さが見えてきてやめられない。
カマキリの卵 260113
2026/1/13
先日、お稽古の蠟梅(ロウバイ)の枝に、カマキリの卵(卵鞘)が1個ついていた。苦手な人にとっては、見るのも嫌だし触ることなど考えられないかもしれない。幸い、その枝で稽古に臨んだ人は、当たり前のこととして使って、平気で持ち帰ったように見えた。しかし、温かい部屋に置いておくと、万一孵化するかもしれないと後で思ったことを、本人にはまだ伝えていない。
花材には、よく見ると、虫や卵が付いていることが少なくない。特に産直市で購入した場合には……。花店で仕入れるときは、出荷者が予め選別したものが市場に出て、それを花店が購入して店頭に並ぶので、多くの人の目を通るぶん安心だ。
過去にはミノムシや、カメムシ、アオムシなど、「ムシ」の名を持つ虫が付いていたことも結構ある。私は、カマキリやアリやクモなど、「ムシ」でない虫の方が苦手ではない。
さて、教室の庭には、化学肥料や化学薬品を何年も撒いていない。それで、サルスベリにウドンコ病が生じたり、アメリカハゼの立木にアリが巣を作っていたりする。セミの抜け殻がやたら多いのは、嬉しいことである。
剣山 260112
2026/1/12
いけばなは、いける行為といけられる花とが合わさって成立している。そして、映画においてエキストラが重要な役割を果たすように、いけばなにも隠れて目立たない役者が存在する。
いけばなで一番目立つのはもちろん花で、次が花器、そして敷板や台を使っている場合はそれらがそのまた次の存在だ。そして、陰の代表が剣山である。水盤を使って「盛花」をいけるには、剣山がどうしても必要になる。しかし、隠されなくてはならない。「いないことにしてくれ」と要求される役者なのだ。
料理の世界でも、ダシは味を支える決め手なのにも関わらず、最終的には隠れて見えない役柄に甘んじる。人間社会においても、同じような役を引き受ける人は多い。しかし、そこに脚光を浴びせようとすれば、有難迷惑になったり、時として恨まれたりすることもあるから注意が必要だ。
私の生徒さんで、剣山を10個高く重ねて主役とし、それに花を添えて作品となした人がいる。びっくりさせられた。そういう主客逆転の行為も、いけばなでは許される。実生活では試みえない剣山革命、素敵で楽しいクーデターであった。
自分の正体 260111
2026/1/11
何で飯を食っているかを、様々な職業名で分類してくれている。私は年金による収入が主であることから、無職という分類に入る。それでは、名刺に印刷する肩書は「無職」なのかといえば、それには抵抗感がある。
氏名だけあればいいじゃないかという指摘もあるなかで、それでも肩書によって社会性が担保されているような安心感もあって、「草月流師範会理事」の名刺が手放せない。いけばなをしている他人の名刺をいただくと、〇〇流師範とか〇〇流教授のほかに、華道家、いけばなアーチストなどなど、皆さん苦心されている。いけばな師だとか花師というのは、まだお目にかかっていない。
他のジャンルで参考になるものはないかと見回すと、料理研究家が応用できそうだ。国家資格の調理師ではなく、料理家でもなく、料理研究家なのである。そのノリで「いけばな研究家」が現れても悪くない。花研究家としてしまっては、牧野富太郎のように図鑑をまとめなければならないから重荷だ。
別に肩書がなくても花はいけられる。しかし、あって邪魔になることもない。「花咲か爺さん」を考えたこともある。