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いけばな随想
diary

こなれた花 250722

2025/7/27

 先般わたしは、「着崩した花」という表現で完璧ではないいけばなの魅力、一定の粗さがある魅力について書いた。今日たまたま、ビル・エヴァンスのアルバム『Sunday at the Village Vanguard』を聴いていて、「着崩す」よりも「こなれた」の言葉が、私が言いたかったニュアンスにもっとぴったりだと思った。
 このジャズのアルバムは、私が生まれた翌年1961年に録音されたもので、ピアノトリオの演奏だ。このトリオは1959年に結成された顔ぶれで、互いのセンスとスキルが調和して、ちょうど聴き頃に熟していたのではないかと感じられる。
 彼らの演奏は、粒立ちが良く硬めに炊き上がった白ご飯のようである。つまり、間違いなく美味しい。けれども、毎日食べる白ご飯だから、ことさらの主張は意識されないまま、気付いたら2杯3杯とお代わりしているような、そんな音楽だ。
 着崩すのは、まだまだ意識的であり過ぎる。気持ち左右どちらかに傾いた眼鏡で、煙草を短くなるまで咥えたまま、かなり猫背で鍵盤に向かうビル・エヴァンスこそは、自己顕示欲も観客も無関係に、こなれた演奏に没頭しているのだった。

枝葉にこだわる 250721

2025/7/26

 一般に、枝葉末節よりも、根っこや幹に相当する重要課題の解決が大事だと言われる。資本主義社会の企業行動ではそうなのだが、実際の世の中には例外が多く、たとえば、政府は国家の長期ビジョンを描いたり示したりすることが決して選挙で自党を利することにならないとわかっているから、数値的に効果を見せるため、くみしやすい具体的な課題を取り上げて対症療法で済ませようとする。
 また一方で、「細部に神は宿る」というとても日本人的な感性があり、それは現代にも生きている。私の体にはこの感性がこびりついており、大事よりも小事に意識が向いてしまいがちなので、企業人よりもいけばなの方が向いているのは間違いない。
 いけばなの材料は、野山や畑や温室で育てられた花木を切り取った、切り花である。特に樹木の太い幹は屋内で使いづらいので、枝を切った「枝もの」を使う。はじめから、枝葉末節でスタートするわけである。そうすると、作業はどんどん細部に向かっていくことが必然で、いけばなは宿命的に枝葉末節にこだわるしかないようにできていた。それの打開も草月のテーマだ。

美味しい料理 250720

2025/7/26

 毎日毎日、家で食事を摂る。ほとんどだいたい美味しい。時々外食する。めったにないが、たまに不味い店に行き当たる。美味しい料理を提供することは、飲食店の義務とまでは言わなくても、面目に関わる重大事だ。
 いけばなの歴史は食の歴史に比べればとても短いとはいえ、少なくとも400年。たくさんの人が毎日のように花をいけてきた。おそらく、ほとんどだいたい綺麗な花だっただろう。日々の食事が美味しいように、日々の花も美しいのである。ところが、勅使河原蒼風先生は、花が美しいことに満足していてはいけないということを考えてしまった。日々の料理や花も大変だ。
 問題は、飲食店が出すプロの料理である。そして、いけばな作家や華道家がつくるプロのいけばなである。食材をナマで食べるよりも美味しく調理することが求められるように、花材にわざわざ手を加えていけるなら、ナマの花よりも“美味しい”いけばなをつくることが当然視されるのは仕方のないこと。
 それだから、美味しい料理を作らなくてはならない料理人のプレッシャーを理解できるし、私も精進しなくてはならない。

花と猫 250719

2025/7/26

「ペットの〇〇がいるから辛い仕事も頑張れる」と聞いて、自分も猫を飼っているからその気持ちがわからないではない。猫好きが嵩じると、「猫を飼う」とか「餌をやる」という表現に噛みついてくる人もいる。「猫は家族です。食事をあげる、と言ってください」
 ペットの飼育は、人間生活の手段よりも目的に近い。ペットのために何かしてやりたいけれど、何かのためにペットを使いたくない。熟年夫婦円満のために使われることも、しばしばあるらしいけれど。
 ここに花の好きな人がいる。「私はあのバラが綺麗に咲いてくれることに命を賭けていたの」と言って、バラが枯れると共にあの世へ旅立つ。……そんな人はいないと思う。花も動物も、命あるものとして同じように愛することはできよう。しかし、花には動物のような目鼻口がないし、心臓もないから、動物に対するような思い入れを持つことが難しい。
 したがって、「君はバラよりも美しい」という男がいたら、そんなことはわざわざ言わなくても当然なのであって、それくらいにしか言えないよということを暗にほのめかしているのかもしれない。

文人調 250718

2025/7/26

 書棚の奥から、『別冊・季刊えひめ(1981年発行)』のコピーが出てきた。もらったのは、霧中居(むちゅうきょ)という焼酎を飲ませる店で、真鍋霧中という遅咲きの画家の名にちなんだ店名だ。その『季刊えひめ』の発行人は故坂本忠士さん(田都画廊経営、シナリオライター)で、私が1979年から数年間大変お世話になった。
 さて、酔って歩いて偶然に霧中居に入ったのが、もう20年近く前だろうか。懐かしい空気を感じて長居をさせてもらったのに、数年後に再訪したらもうなかった。
 真鍋霧中の絵は、文人画とも呼ばれるように洒脱で余情がある。しかし私は、南画だとか文人画というものに興味がなかった。ところが、いけばなを始めて10年くらい経った頃、小原流のいけばな教本に『文人調いけばな』があることを知らされ、大いに興奮した。何が面白いといって、時代を超越しているセンスである。古めかしいのに新しい。
 文人調いけばなは、花器や敷板などの取り合わせも含めて、中国趣味を感じさせる日本的様式で、西洋の人から見ると最も「いけばな的いけばな」に映るかもしれない。

講師の事